2005年5月19日木曜日

生命操作への疑問

 [以下の記事は、四方館さんの「水音とほくちかくおのれをあゆます」にトラックバックして書いたものである。四方館さんのその記事は、プロバイダーの事故により消滅したが、関連部分は私の記事内に、次の通り引用してあった。]

<身体・表象>-6
<身分け、錯綜体としての身>
     引用抜粋:市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫 P7~P12
 生き身である<身>は、自然の一部でありながら、動的均衡を保ちつつ自己組織化する固有のシステムとして自然のうちに生起する。<身>は相対的に<閉ざされ>、まとまりをもったシステムだが、自己組織化はたえまない<外>との相互作用のなかではじめて可能となるのだから、<開かれた>システムでもある。…


 私は昨日の朝日新聞夕刊に掲載された福岡伸一・青山学院大教授(分子生物学)の随筆 [1] で、生命に関するルドルフ・シェーンハイマーの動的平衡論について読み、目からウロコの落ちる感を抱いた。はからずも、きょうまた、四方館さんのブログで「動的平衡」のことばを目にし、福岡教授の随筆の要旨をぜひ紹介しておきたいと思うにいたった。

 ナチスから逃れてアメリカへ渡ったユダヤ人科学者・シェーンハイマーは、放射性同位元素で目印をつけたアミノ酸をネズミに食べさせる実験を行った。実験の結果は、食べたアミノ酸が、瞬く間に全身に散らばり、ありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となり、ネズミの身体を構成していたタンパク質が3日間のうちに約半分という割合で食物由来のものによって置き換えられることを示した。生命を構成している分子は、「行く川のごとく流れの中にある」というわけである。さらに、この分子の流れは、流れながらも相互に関係性を保っているそうである。シェーンハイマーは、生命のこの在りようを「動的な平衡」と名づけたのである。

 福岡教授は「ある意味では20世紀最大の科学発見と呼ぶことができる」シェーンハイマーの業績をこのように紹介した後、今日の生命工学に目を移す。そして、現在その発展を阻んでいる諸問題が、「技術レベルの過渡期性を意味しているのではなく、むしろ動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為自体の本質的な不可能性を証明しているように思えてならない」と結んでいる。

 私は生物学・生命工学に疎いものではあるが、福岡教授のこの生命工学の現状に対する批判は、問題の核心を鋭くついているように思う。


  1. 福岡伸一、生命工学の現状:「機械的な操作」の限界示す、朝日新聞夕刊・文化欄 (2005年5月18日).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ヨハン 05/19/2005
 神の域とされていた行為を平然とやってのける時代に成りつつあります。ただ私個人としては何が出来るかより出来た結果何がもたらされるかを考えるべき時代が来たのかな…等と思ったりもします。軍事から飛躍的に発展した科学が平和利用のみに限定出来ずに今日に至り、未だに秘密主義の軍事にのみ生かされていくのも悲しい事実です。遺伝子操作等もいつしか破滅を招く要素にならぬ事を願う一人ですが、SF 小説のようにしか解釈できない人も多いのが現実。今までに人類の行為により失った生態系は測り知れず…人類の進歩の妨げとなる「自然との共存」こそが本来の人類の最善であると考えるのは間違いなのでしょうか。

Ted 05/20/2005
 ヨハンさんのお考えは、私のものと基本的に同じであることを嬉しく思います。「自然との共存」は人類の進歩の妨げではなく、進歩と思われているものに多くの弊害が伴っていることをこそ反省し、何が本当の進歩かを考え直さなければならないと思います。

Y 05/20/2005
 遺伝学も大いに含めて、これらは私の夫の研究分野のひとつなのですが、私としては、「生命工学」なるものに(私の居た教育学部教育学科では、企業でやってきた「人間工学」への反省から、教育学の学者に復帰された女性がいました)、どのような「生命との日々の関わり」が研究生活として形成・維持されているのか、その風景を知りたく思います。
 生命工学と生物学が一線を画するに違いないのは、生きものに直接、接する(たとえ実験動物として殺傷する日々であっても)かどうか、という点にまずあって、この「直接性」を欠いた「操作的」な生命との関わりになれば、それは生命工学の領域になるのでしょうか。そのように「機械論的に操作する」学であれば、「生命の動的平衡」を目の当たりにできないのは「直接性」を失っているその所為ゆえ、ということになりますね。しかし、何が「生命との直接性」か、という問題になると、大型装置を使用すれば直接性が失われる、ということではなく、やはり生命と向き合う根本姿勢として、自分は生物学者の立場を取るのか、生命工学を担う者として自己を考えるのか、ということになるのかもしれません。研究姿勢、というのは、私が今、いろいろな医療関係の学会を見ていましても、はっきりと表れてそこに添う者、添わない者に分かれるように思います。
 学問にはたえず倫理が必要であるので、生命工学は生命工学の倫理を厳しく問いただしてほしい、という気がいたします。「研究成果」と「殺傷した生命」とを天秤にかけるより、もっと根源的なところでも倫理を確立しておいてほしいと。
 私のような分野は、間違ってもそのような命のレベルでの犠牲を生み出さない分野なので(もちろん倫理綱領はあります)、科学技術の行動範囲を逸した「画期的な」研究が日々おこなわれ、生命が無残に扱われていないか、将来も含めて気になるのです。

Ted 05/21/2005
 貴重なコメントをいただきました。「学問にはたえず倫理が必要である」、全くその通りです。
 折しも、阪大からアメリカの医学専門誌に投稿し公表された論文に、学生によるデータ捏造のあったことが報じられています。研究においては、テーマの選択や取り組みの姿勢から発表にいたるまで、すべての局面で倫理性が要求されます。このことは、研究以外の仕事でも同様でしょうが、特に研究は頭脳の自主的な活動に任される部分が多いのですから、研究者はこれについてよく自覚しなければなりません。ノーベル賞物理学者ファインマンの学生向け演説にも、研究における integrity(誠実さ)の重要性を説いたものがありました。["Cargo Cult Science" in Surely You're Joking, Mr. Feynman! (Norton, New York, 1985).]

四方館 05/21/2005
 福岡伸一氏の文春新書『もう牛を食べても安全か』という書はタイトルのような時事的レベル以上の論究のようで、興味惹かれますね。生命科学から見たシェーンハイマーの「動的平衡論」については第一世代とされ、第二世代の散逸構造論、第三世代のオートポイエシスなど、その流れを概観するにも私の知識なぞではいまのところどうも手に負えそうもないですね。

Ted 05/21/2005
 四方館さんは哲学から生命工学まで、ずいぶん幅広く、また深く勉強していらっしゃいますね。私も見習わなければなりません。私には「動的平衡論」さえ、聞き初めでした。

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