2005年5月20日金曜日

意識と無意識の闘い



 写真は交配の繰り返しによって作り出されたブルー系バラの代表「ブルームーン」。2005年5月15日、堺市浜寺公園の「ばら庭園」で。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月12日(火)

 Sam は同窓会の途中で、行かないと考えた、といった。ぼくも、ふと、漱石の『三四郎』中の美禰子のように、無意識のうちに、ということがあるかも知れないと思った。だが、それは、あくまでも無意識のことだ。校長先生のいわれた「女の子のことを考える」[1] の「考える」は意識上のことではないか。意識上では、ぼくは決して Minnie を女性という面で対象にしているのではない。
 たとえば、無意識の中の行動が犯罪になることがあるだろうか。このことについて、ぼくはよくは知らないが、無意識が自分をある方向へ引っ張って行くことに抵抗出来るものだろうか。――こんなことをいっていて、万が一、無意識の中に悪が根差した場合にはどうするのだ? 無意識とは、ある場合には、意識が成長したものかも知れない。だとすれば、悪い無意識は、意識であるうちにたたき潰さなければならないのだ。――Sam! もしも、ぼくに悪い意識の成長が認められるならば、遠慮なく注意してくれ給え。
 ところで、先に、意識上で対象にしていなければ、無意識下のことは問題でないように書いた。そこへ戻って考えてみよう。「同一の問題に対しては、相対立する意識と無意識において、前者が勝利する」という定理があればよいのだが――。意識と無意識が共有する問題について、意識は最小限、行動を味方につけようとするであろう。それに成功すれば、意識は勢力を二倍にして無意識と闘うことになる。定理の証明はこれで十分とはいえまいが、無意識をあやつることは不可能でも、確固とした意識があれば、闘いには勝利できるのではないだろうか。

引用時の注

  1. ここに書いてある校長の話について、日記中には記述が見当たらないが、紛失した日記帳の方にあったのかも知れない。何かの機会に、「君たちははまだ、女の子のことを考えるべき年齢ではない」というような訓話があったのだろう。私は Minnie 訪問を企てるに当たり、それを気にしていたらしい。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/20/2005
 意識と無意識のとらえ方は、精神の学をやってきた私からみても、その通りだ、と的確なとらえ方に思えますね。意識は最小限、行動を味方につける—そうですね。けれども、一般に言う「無意識」も、行動を起こすことがあるのですね。行動にはならなくても、精神症状となって活発に自己「外」のものの様相を呈して現れることもありますし、また無意識の次元から押し出すものが、意識の領野に急激にのぼってきて、行動を迫ることはあるでしょうね。
 確かに、高校生の時期というのは、自然の情に対してこのような理性的葛藤が多い時期なのだろうと思います。これも本当に貴重な日記ですね。

Ted 05/21/2005
 「無意識」も、行動を起こすことがある:これについては、第2パラグラフで取り上げています。高校生時代の考察も結構行き届いたものがありました。しかし、第3パラグラフの記述は、冗長で、まずいところもあったので、引用にあたって整理しました。「意識は最小限、行動を味方につける」あたりの原文は、次のようになっています。

最小限、行動上では意識が勝つといえるだろう。そうすれば、意識は行動という味方を得、勢力を二倍して無意識に向かう。ここで関ヶ原の戦いということになる。悪い無意識が形成された以上、戦争はまぬがれないのだ。戦争となれば、正義の軍には勝利の神あり、とかで、かなり有利になるから、しめたものだ。しかし、次々に強い新たな意識を動員し、味方の屍を乗り越えて戦わなければならないだろう。…

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