高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年8月16日(土)晴れ
和田信賢さんの死は、家にラジオのないときだったら、なにも感じなかっただろう。「話の泉」でのあの明朗で、知識とユーモアを処理するにふさわしい声がもう聞けないのは、何といっても残念だ。
けさも露を踏んで、ここ、上野学園医務室へ来ている。昨日の午後はここで風呂を貰った。まったく、ありがたいことだ。これからここへ入って来る盲・ろうの孤児たちは、ここで楽しい生活を見出すだろう。社会施設の立派なものは、見ていても気持がよい。しかし、まだまだ不足なところがあるだろう。
Sam は「考えられんことやな」とか、「たしか…のはずだ」ということばをよく使うね。それらのことばは、Sam の妥当性を尊ぶ考え方を如実に示すものと思う。妥当性は「進適」[1] の問題を解く場合に重要なことだ。もちろん、その用途は、そこだけに限られたものでなく、実際面においても、広く要求される。
ああ何ということ!
Sam はなぜ「たいへん」を連発したのかね。昨年のいまごろ、ぼくが交換ノートに書いたことを理解し、そして覚えていて使ったのかい? われわれは二人で行き、そして、すべての話は Sam がしたけれども、Minnie や彼女の母は、ぼくが一人で行ったように感じなかっただろうか。もしも、そう感じられなかったとしても、Sam に時間的損失と精神的損失(これは、あったかどうか、ぼくには分からないが)を与え、自分自身にもそれを蒙らせ、彼女や彼女の母に不快を与えた責任は、一切ぼくにあるのだ。
Sam はエマーソンのことば [2] を巧みに説明したね。しかし、それが具体的に必要とする手段 [3] について、われわれはその問題点をよく知らなかったのだ。彼女から承諾を得られなかったのは、彼女がその手段をよいと思わず、そして、実際によくなかったのだ。
Henry David Thoreau のことばを、ぼくは自分の小説の中で肯定した。また、彼女の家を辞するとき、それが正しかったと思った。だがすぐに、――Sam と競争するように兼六園球場の裏を歩いていたとき――疑問に思った。「とても声が聞こえないくらいに身体と身体とが遠く離れていなければならないのだ」ということは、はたして、この問題にも当てはまるものだろうか。……どうも、いまのぼくには分からない。ぼくはあのとき、沈黙を破るだけの落ち着きがあり、ことばも持っていた。あるいは彼女に承知させ得たかも知れない。しかし、平生のぼくを見ていることによって、それを信じてくれそうもない Sam と一緒にいたことが、ぼくに何もいわせなかった [4]。
いや、正しくなかったことはない。
彼女の母にあのようにいわれるほど、便りは出していないよ。昨年求めていたものを受け取ってから、ずっとあとになって(去年の昨日ぐらいだっただろう)、礼状を出しただけだ。
黒い、豪快な顔をし、鋭い目を持った H・I さん――あるいは、彼女らしい人物――が、Sam とあそこへ行くとき、大学病院前にいた。そして、くしくも、Jack と帰るときにも、またいた。「I さんじゃないですか」という機会は、その二回ともに見出されなかった。H・I さんは、石引小学校のとき、少なくとも国語や社会の時間の発言においては、われわれのクラスが彼女一人に牛耳られていたといってよい人物だ。もしも、Minnie が彼女のような性格の持ち主だったら、決してわれわれの要求に承諾を与えなかったことはなかっただろう。しかし、H・I さんが休憩時間にデッサンをするのを、彼女の背に無邪気に、もたれんばかりにして見ていたときのぼくの感情と、よい響きの音を押し殺すようにして口から出しながら話す Minnie の声をきょう聞いていたときのぼくのそれとは、同一だっただろうか。[5]
Jack は彼自身が、彼が宿題として書いた小説の主人公のようになりそうな気がする、といった。その結末は、とても悲壮なものだそうだ。彼は自分の悲劇を考えながら、愉快そうな顔をしていた。[6]
引用時の注
進学適性検査のこと。当時、各大学の入試成績と合わせて、全国一斉に行われたこの検査の成績が、合格者選別に用いられた。理系と文系の問題からなり、回答は選択式で、既得の知識を試すのではなく、推理・考察力を試す内容のものであった。この検査に備えて、業者の作成した問題によって校内で行われていた模擬検査を、高校2年のときから私も受けていた。
「われわれが出合う人は、誰でも何かしら自分より優れた点を持っているものであり、われわれはそれを学ぶべきである」という意味のことば。
Minnie にわれわれの交換日記の仲間に入ることを勧めたのだったか。私はその後、このとき Minnie を訪問したことさえ、すっかり忘れてしまっていた。Minnie は、私が前日書き上げた小説の女主人公のモデルの一人だった。私は、小説を書いたあとで、なお、そのモデルについてもっとよく知りたくなったかのようだ。
責任を Sam に転嫁しているような書き方だが、私を無口と思っている人の前では、大いに話したいときでも、そうすることをしばしば差し控えたのは事実である。
小学校6年のときの同級生、H・I さんについては、「A先生の計らい」に H子として記した。また、彼女は "The Girl of Masculine Spirit (男勝りの少女)"(英文)にも H・I として登場している。彼女がいまなお東洋文学の准教授として働いているカリフォルニア大学サンタバーバラ校のウエブサイトに、彼女の最近のポートレートを見ることが出来る(私がこれを見つけたのは、つい先日のことである。—後日の注:その後、彼女は名誉教授となったおり、新しいリンクと差し替えた—)。
Jack は大学卒業後、神戸に住み、高校の校長も勤めたあと、なお高校の非常勤講師として働いている。孫が10人ほどいて、幸せそうである。
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