2005年3月2日水曜日

卒業式の日

高校時代の交換日記から。

1952 年 3 月 12 日(水)晴れ

(Sam)

 午前九時半までというと、ばかにゆっくりしていられる。ちょうど九時半に学校に着くように計算して行ったのに、着いてから体育館でしたたか篭球ができた。
 卒業生はその九割までが長髪である。一人だけ背広を着て来たのもいた。校長の話も、PTA 会長の話も、「大志を抱け」とか「なくてはならぬ人物となれ」とか、いい古された言葉を繰り返し強調するものだった。やっぱり、「蛍の光」は歌わなかった。式はじきに済んだから、昼にはまだ早かったので友人と卓球をした。バットが一本しかなかったから、一人は木片でしなければならなかった。木片のバットでありながら、勝ってばかりいられて愉快だった。

 どれに優劣をつけたらよいか分からない。たいていの場合そうだが、これもそうだ。原画展。川西英代の木版のものが、中でも特徴があってよいと思う


(Ted)

 少し弱い日光の中に埃の舞っているのが認められるのと同じような具合に、途中で上昇したり横へ流されたりしながら落下してくる、ごく細かな雪片が視界にある。目の前の電柱の、こうして坐っておれば 1 m くらい上にある横木に、赤い碍子があることに初めて気がつく。

 次のような問題を始め、少なくとも5、6 題は考えて出そうと思っていた来週のホームルーム時の「話の泉」がスポーツに変更されたことも不愉快の一因だったかもしれない。
 「学年末も近づきましたが、これから述べる文章はそれぞれ『何か』の終りにある文章です。その『何か』を答えて下さい。
 ◎球が運動場から出てしまったときは、ワンベースしかとることが出来ない。
 ◎以上の決議を国中に告げ知らせるため、それをヒエログリフィック、デモティックおよびギリシャ文字の 3 通りに書いて石に刻み、方々の神殿に建てることにした。
 ◎日本国政府のために、アメリカ合衆国政府のために。
 ◎蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
 ◎そしてすべては他の人々の、そして主要なことには私の幸福のためだ…」

 卒業式に出なくてもよかったので、午前中と午後 2 時過ぎまでは、端座のし通しだった。外へ出ると、目が覆いを取られたような感じがした。HN 君のところには、IS 君が来ていた。彼の下の名はぼくのと同じで、それを仮名書きしたときの始めの 2 文字だけを使う(最初の文字は長音にする)のが彼の愛称となっている。

 悲劇的場面を想像することが多すぎる。これでは精神が実際行動を阻む結果となりかねない。止めよう。

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