紹介している高校時代の交換日記は、下記の 1952 年 3 月 31 日付けの分で、その頃使用していた 2 冊のノートのうちの 1 冊が最終ページとなっている。使用開始は 1952 年 1 月 1 日。上のイメージはその 1 冊の表紙である。
表紙にある文字は、私が書いたもので、次の通り。
このノートは前年 4 月から数えて 12 冊目(いずれも B5 サイズの比較的薄いもの)だったということである。Something と Anything は当時実際に使っていたニックネームで、日記中では Some、Any と略記していた。当ブログへの引用中では、これらを Sam と Ted に書き換えている。
(Ted)
1952 年 3 月 31 日(月)曇りのち雨
これじゃまるで小さな暴君だ。[1]
森茂雄東大助教授の参考書 [2] で、nPr と nCr の公式をやっと理解した。
(Sam)
きょう手紙を出せば、明日着くのだから…。明日という日を利用していたずらしてやろうと思い立った。昨年は Ted がその対象の一人だったのだが。「四月馬鹿だとさ」と拝啓の代わりに書いてみたが、どう思うことやら。
Neg のところへ行くつもりで Funny(ME 君)を誘ったが、Keti らとソフトボールをするのだというから、「混ぜて」貰うことにした。ぼくはファウルばかり打って、三度も溝へたたき込んだ。出塁率は五割くらいのものだろう。九回裏にぼくの次の Keti が「さよならホーマー」を打ってゲームセットとなったが、守備をしていた Funny の感想がなかなか面白い。
「Sam がわしんとこ打ったら、わざわざ逃がしてホームランにさせてやったがに。(ぼくは大フライを打って SW 君に捕られた。)Sam なら、ホームランにしんなんと、わき目もふらんと一生懸命走ったやろうに。」
事実その通りだと思う。同じくソフトボールをしていても、考え方においては、かなり違っている。勝ったらどう、負けたらどう、という試合でもない、ただ遊ぶだけのものである場合、Funny のような考え方で、のんびりとやるのもよいかも知れない。しかし、「かも知れない」以上のことばでそれを評することはできない。
そのあとで Funny と将棋をする。「Sam は長いこと考えるさかいな。」Funny はなかなかよく、ぼくを知っている。まだ四時だったが、入浴に行かなければならないからといって、帰ろうとすると、「Sam は昼んないと行けんがやったな」である。
引用時の注
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Y 03/16/2005 11:51
Which will it grow into, the mud of regret or the pond of joy? --いい表題ですね。into の使い方がなにか、よいのです。
もっとも、実際の交換日記は、この両者(the mud of regret or the pond of joy)の間の「あいまいな感情部分」を大切にして綴られている気がしますね。「未だ何にも成れない途上にある高校生」らしい感性体験を生かして書かれている点が新鮮です。
金沢弁というのはなかなか癖があるのですか? →Samさんの日記の台詞。
Ted 03/16/2005 15:40
日記帳の表題をほめていただき、恐縮です。実は、自分ながら、高校生時代によくこういう言葉を思いついたと感心していました。
石川県と富山県では大体よく似た方言が使われています。最近は方言を使う人口が次第に減っていると思います。方言は意外に、丁寧な言葉や古語に由来している場合があるようです。金沢では、「見なさい」を「見まっし」と言いますが、「~しまっし」は「~なさいませ」という丁寧語から来ているのです。また、私が小学生か中学生の頃、現在富山県氷見市になっている田舎の伯母のところへ行っていた折、近所の子どもが赤ちゃんを見て「びっさいばなして、しょっしゃなあ」といいましたが、これは「ちいさな鼻をしていて、面白いなあ」という意味でした。「微細な鼻をしていて、笑止だなあ」から来ていると思われます。子どもが、昔の殿様が使ったような言葉を使っているのです。
表紙にある文字は、私が書いたもので、次の通り。
Which will it grow
into, the mud of regret
or the pond of joy?
12
Something
and
Anything
このノートは前年 4 月から数えて 12 冊目(いずれも B5 サイズの比較的薄いもの)だったということである。Something と Anything は当時実際に使っていたニックネームで、日記中では Some、Any と略記していた。当ブログへの引用中では、これらを Sam と Ted に書き換えている。
(Ted)
1952 年 3 月 31 日(月)曇りのち雨
これじゃまるで小さな暴君だ。[1]
森茂雄東大助教授の参考書 [2] で、nPr と nCr の公式をやっと理解した。
(Sam)
きょう手紙を出せば、明日着くのだから…。明日という日を利用していたずらしてやろうと思い立った。昨年は Ted がその対象の一人だったのだが。「四月馬鹿だとさ」と拝啓の代わりに書いてみたが、どう思うことやら。
Neg のところへ行くつもりで Funny(ME 君)を誘ったが、Keti らとソフトボールをするのだというから、「混ぜて」貰うことにした。ぼくはファウルばかり打って、三度も溝へたたき込んだ。出塁率は五割くらいのものだろう。九回裏にぼくの次の Keti が「さよならホーマー」を打ってゲームセットとなったが、守備をしていた Funny の感想がなかなか面白い。
「Sam がわしんとこ打ったら、わざわざ逃がしてホームランにさせてやったがに。(ぼくは大フライを打って SW 君に捕られた。)Sam なら、ホームランにしんなんと、わき目もふらんと一生懸命走ったやろうに。」
事実その通りだと思う。同じくソフトボールをしていても、考え方においては、かなり違っている。勝ったらどう、負けたらどう、という試合でもない、ただ遊ぶだけのものである場合、Funny のような考え方で、のんびりとやるのもよいかも知れない。しかし、「かも知れない」以上のことばでそれを評することはできない。
そのあとで Funny と将棋をする。「Sam は長いこと考えるさかいな。」Funny はなかなかよく、ぼくを知っている。まだ四時だったが、入浴に行かなければならないからといって、帰ろうとすると、「Sam は昼んないと行けんがやったな」である。
引用時の注
- 何について書いたか記憶がない。
- 『解析 II の研究』(旺文社)、当時よく用いられた受験用参考書。2 年で習う数学の予習をしていたようだ。
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Y 03/16/2005 11:51
Which will it grow into, the mud of regret or the pond of joy? --いい表題ですね。into の使い方がなにか、よいのです。
もっとも、実際の交換日記は、この両者(the mud of regret or the pond of joy)の間の「あいまいな感情部分」を大切にして綴られている気がしますね。「未だ何にも成れない途上にある高校生」らしい感性体験を生かして書かれている点が新鮮です。
金沢弁というのはなかなか癖があるのですか? →Samさんの日記の台詞。
Ted 03/16/2005 15:40
日記帳の表題をほめていただき、恐縮です。実は、自分ながら、高校生時代によくこういう言葉を思いついたと感心していました。
石川県と富山県では大体よく似た方言が使われています。最近は方言を使う人口が次第に減っていると思います。方言は意外に、丁寧な言葉や古語に由来している場合があるようです。金沢では、「見なさい」を「見まっし」と言いますが、「~しまっし」は「~なさいませ」という丁寧語から来ているのです。また、私が小学生か中学生の頃、現在富山県氷見市になっている田舎の伯母のところへ行っていた折、近所の子どもが赤ちゃんを見て「びっさいばなして、しょっしゃなあ」といいましたが、これは「ちいさな鼻をしていて、面白いなあ」という意味でした。「微細な鼻をしていて、笑止だなあ」から来ていると思われます。子どもが、昔の殿様が使ったような言葉を使っているのです。
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