2005年3月19日土曜日

勤勉科学少年

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952 年 4 月 2 日(水)みぞれ、雨、曇り

 10 時までに登校。旧ホーム番号の 1 の桁と 10 の桁の数を加えた番号の教室へそれぞれ入って、1 枚の紙に、旧整理番号、氏名、ふりがな、課程、性別を書くだけが仕事だった。その後、講堂に集まり、T・K 先生から 2 単位課目の訂正その他の話を聞いたが、関係のないものばかりだった。

 どこかで読んだといった "Daffodils" は、じつは Sam がいる間にでも出して見せることが出来たのだった。家主のご長男 S さんが、押し入れを整理したら出て来たのだが要らないからといって、昨年の夏休み頃にぼくの机の上に置いて行った昭和 16 年頃の『上級英語』誌数冊中の 1 冊にあったのだ。散文訳がついているから写しておこう。
I wandered lonely as a cloud
that floats on high o'er vales and hills,
... [1]
私は谷や小山の上高くただよう一片の雲の如く
只一人でさまよっていました
…[以下略]…
"what wealth the show to me had brought = how much pleasure I had got from this beautiful sight" と説明してある。なるほど、そう思って読めば、理解出来る。

 学校へ行って、まだ何も始まらずに編集室にいたとき、ちょっと入ってきた KS 君と Jack の間で、高師付属高校へ行っている M・I 君の話が出た。彼については、石引小 6 年のとき、隣の 1 組にいて、学芸会のとき、何か理科関係の発表をしたことがあるのを覚えているだけだ。強いて彼に関する知識をもっと集めるならば、家が上鶴間町であること、誰かの話から彼の部屋は実験室のようだという概念がぼくの頭に植えつけられたこと、顔は浅黒く温和な感じであること、背は低くなく、肥えてもやせてもいないこと、などだ。その彼が、ぼくの頭の中に輝いて存在し続けているのは、誰もが彼を勤勉とたたえ、そのことが彼を周囲に敬虔の念を起こさせる光源としているからである。T・M 先生の家を訪れた日、上菊橋を渡った坂のところで彼と行き会い、Jack と一緒に礼をした。ぼくの目は、彼の笑顔の印象が、いままで保持していた彼の像と異なるものでないことを感知した。[2]

 引用時の注
  1. William Wordsworth (1770–1850) の詩。全文はこちらで読める。
  2. 高校 3 年の終りに M・I 君と私は共に高峰賞というものを受賞することになったが、意外にも自室が実験室のようだったという彼が準賞で、半ば文学好きだった私が正賞を貰ったのは、何だか彼に気の毒な気がした。私は 50 歳台も後半ぐらいになってから、東大を出て大阪の S 社に勤めていた彼の消息を探り当て、その後年賀状の交換を続けている。

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