2005年3月1日火曜日

三島由紀夫の自死

 最近、三島由紀夫の『仮面の告白』について少しばかり考える機会があったのだが、折しも、雑誌『図書』の近着号に鶴見俊輔が三島由紀夫の自死について書いている [1]。三島は 1970 年 11 月 25 日、ライフワーク長編『豊饒の海』最終章「天人五衰」を完結したあと、東京の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室で自衛隊の覚醒と決起を促したが果たすことなく、「天皇陛下万歳」を三唱して古式に習い割腹して自死したのであった。そのとき 45 歳。[2]

 鶴見はその短いエッセイの前半において、吉本隆明の三島への追悼文 [3] を引用し、それを「すぐれた文章と思う」という。吉本の文はいくらか難解であるが、「つまらぬ哲学はつまらぬ行動を帰結する」とあるところを見れば、三島の哲学をつまらないもの、その自死をつまらない行動と見たようだ。

 鶴見は三島の自死を聞いたとき、うろたえ、いまでもその「うろたえ」が残っていると書く。このことと吉本の文への賛辞から、鶴見は三島の自死を異常といわないまでも、特異なものと見ていると思われる。しかし、鶴見は「彼が自分をほろぼすしかたには、自分を超える姿勢が見える。自分を超えるその形を、私は、軽く見ることはできない」とも述べている。これは、吉本に完全に同意して三島の自死を全くつまらない行動と見てしまうこともできないという思いの併置である。なお、鶴見は三島の政治行動・政治思想には同調できないことも記している。

 自衛隊の覚醒と決起を促したのは、まったく、アナクロニズムというよりも、怪奇である。また、生きている限り、あるいは少なくとも比較的健康である限り、命は大切にしなければならないとも私は思う。そういう意味で、私も吉本の三島への追悼文に賛同するものである。ただし、作品の評価は、作家個人の生き方とは切り離してなされるべきものであろう。文芸評論において、作品中に作家の生き方がどのように影を落としているかは論じられて当然であるが、三島の自死の形が何割かの読者を彼の優れた作品群から遠ざけたとすれば、不幸なことである。——という私も、じつは最近まで、どちらかといえば遠ざかっていたほうであるが。——

  1. 鶴見俊輔「弔辞」図書 No. 671, p. 43(2005 年 3 月)。
  2. 「三島由紀夫年譜」、ウェブサイト『三島由紀夫文学館』
  3. 吉本隆明『追悼私記』(JICC 出版局、1993;ちくま文庫、2000)。

関連文献(後日の追記)
  • 朝日新聞、「天声人語 」(2005 年 11 月 25 日)。 "… 三島由紀夫は、初期の代表作「仮面の告白」の自序原稿の一つに「人みな噴火獣(シメエル)を負へり」と …" とある。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 03/01/2005 08:35
 芥川龍之介、太宰治、川端康成、三島由紀夫 … と、名作家だけでも、自殺している作家は多いですからね。
 けれども、その中でも、確かに三島由紀夫の自殺の仕方は、政治行動の形をとっていて特異ではありますが、もちろん到底、そのような政治思想、政治行動のゆえのみで自殺したのではないでしょう。
 私は作家が自殺で生涯を終えるのは、肯定するのですけれどね。特に、作家自身の人生より、彼が命をかけて生み出した作品のほうが世に残るから、といった理由ではなく …。

Ted 03/01/2005 09:19
 そうです。三島の自殺は政治行動の形をとってはいますが、根本には、彼自身の生き方についての美意識があったでしょう。
 Y さんが、作家が自殺で生涯を終えることを肯定される理由は何でしょうか。物事を肯定する裏には、はっきりした理由があるとは限らないかも知れませんが。

Y 03/01/2005 15:58
 作家の自殺に限らないのですが、私は、人生は結果論ではないと思っているからです。どんな悲惨な終わり方、無念な終わり方、満たされた息の引き取り方でも、いいのではないかと。
 もちろん自殺には、自分に対する最も大きな倫理的責任が関わってきますが、私も病気持ちで、特に結婚後は、申し訳なさゆえに自殺、ばかりを考えた人間ですから、それについては、「人間には、最終的に自らの命を自ら絶つ権利がある」と、考えています。その権利を行使するかしないか、ということだと思っています。もちろん他者が、自殺を日々考え続けたそのひとの内面の苦しみにどれだけ寄り添うことができるか、それを考えれば、上述の権利を自分で行使するか・しないかの問題のほうが、「やはり人間は自分自身でしかありえない、自分自身としてしか生きえない」という人間の根本原理と思われるもの、と直結していると私は思うからです。… で、私、死んでいませんものね。
 もうひとつ、歴史に名を残すような作家には、作家として本当に自分は自死するのか、という(社会的、といった言葉以上の)苦悩があったはずです。彼らの、実人生と作家人生との二重の人生。三島由紀夫という作家の自殺も、そのような思いで関心を向けなければならないと思います。

Ted 03/01/2005 20:10
 私も、「作品の評価は、作家個人の生き方とは切り離してなされるべきものであろう」と書きましたのと合わせて、「人の価値は、その人の最期の形で決まるものではない」と思っていますから、Y さんの「人生は結果論ではない」と同じ考えを持っているといえましょう。
 Y さんの「人間には、最終的に自らの命を自ら絶つ権利がある」というお考えも、私は否定しません。ただ、私は、自分が「自殺を日々考え続ける」ような「内面の苦しみ」にぶつかった場合には、それを何とか克服して生きる方を選びたいという考え、ないしは、実際にそのような苦しみに直面した経験のない者としての楽観的希望、を持っているということになりましょう。
 三島由紀夫の場合には、苦悩が大きかったというより、老醜をさらしたくないという美意識から、ライフワーク長編の完結時点で半ば欣然として自死を選んだように私は思いますが、いかがでしょうか。

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