2005年4月18日月曜日

「時間」について

 先日、Y さんから、これから書く論文が時間論に関係したものになりそうなので、物理学での時間の解釈について少しずつでも教えて欲しい、という主旨のメールを貰った。それに対する返信に手を加えて、「ニュートンの時間とアインシュタインの時間」として、下に紹介する。

 たまたま時を同じくして、SNS エコーの「おとな科学相談室」グループ掲示板で「時間とは何か?」という投稿を見かけ、私も返信を投稿した。2番目に紹介する「時間は基本的概念か」は、その投稿を少し修正したものである。

 浅学のため間違いを書いているところがあれば、お教えを乞う。

ニュートンの時間とアインシュタインの時間

Y さん

 私も「時間」については興味があり、イギリスの G. J. Whitrow が著した2冊の本 [1, 2] をかなり以前に買って読みかけましたが、まだどちらも読了してはいません。他にも時間に関する本を何冊か持っていますが、いずれまた紹介します。

 きょうは、物理を学んだ者がごく普通に知っていることだけを書いてみましょう。

 ニュートン力学での時間の概念は、時間は宇宙のあらゆる場所で一様に経過している、というものでした。この概念は、アインシュタインが1905年に特殊相対性理論を発表してから、大きく変わり、時間はいわば個別的なものになりました。系の運動状態によって、時間の進み具合は変わるのです。これは、特殊相対性理論の基本原理である光速不変(光源に近づく観測者にも、光源から遠ざかる観測者にも、光速は同じと観測される)ということから導き出されるものですが、加速器で作りだされて高速で運動する不安定粒子の寿命の変化によって、実験的に確認されています。

 物体が光速に近い速さで運動するほど、時間の経過が遅くなるのです。このことから、「双子のパラドックス」というものが出て来ました。双子の一方が高速のロケットに乗って宇宙旅行をして帰還すると、地上に残っていた他方より若いということになりますが、等速運動は相対的なもので、ロケットに乗った方から見れば、地上に残っている方が高速で動いていると見えます。そうすると二人が再び出会ったときには、どちらがより若いともいえないのではないかとの疑問(パラドックス)が生じるわけです。これは、ロケットは途中で向きを変えるとき、減速・再加速という「非慣性系」の状態(宇宙全体の質量分布に対して加速度をもつ)になります。このことを考慮すると、ロケットに乗った方が再会時に若いというのは正しいのです(Max Born の本 [3] に分かりやすく説明してあります)。

 相対性理論では、もう一つ、時間と空間が座標変換によって互いに転化する、ということがあります。3次元空間を記述する空間の座標系を、原点を固定して回転すると、原点から離れたある点の x、y、z 座標の値は変わりますが、各座標値の二乗和で表されるその点までの距離は変わりません。相対性理論で運動を記述するには、x、y、z に ct(c は光速、t は時間)を合わせた4次元の「時空」直行座標系を使います。この座標系の回転で不変の距離に相当するものは x、y、z の二乗和から ct の二乗を引いたもの(i を虚数単位とすれば、ict の二乗を加えたもの)であり、空間座標の回転で x、y、z の座標値が転化し合ったように、時空座標の回転では x、y、z、ct が転化し合うのです。相対的に光速に近い運動をしている場合にしかいえませんが、ある人の時間は他の人の空間であり得る、というようなことです。

 きょうはこれくらいで。

 Ted


  1. G. J. Whitrow, The Natural Philosophy of Time (Clarendon Press, 1980).

  2. G. J. Whitrow, Time in History (Oxford University Press, 1988).

  3. Max Born, Einstein's Theory of Relativity (Dover, New York, 1962).



時間は基本的概念か

 以前、ロンドン大学名誉教授 G. J. Whitrow の書いた400ページほどの本 [1] を買い、約1/5だけ読んで投げ出してあったのを思い出し、その最終章「時間の性質」の最終節「結論」を走り読みしてみました。この著者の考えは次の文に要約されているかと思います。

 哲学者は時間の現実性を否定し、物理学者は時間の方向性は、たとえばエントロピーのような、より基本的な概念で説明できる誘導概念であることを証明しようとしている。しかし、時間の本質はその遷移性にあり、それは、より基本的な概念によっては説明できない基本概念であろう。時間は活動の様式であり、活動なくしては時間は存在し得ない。したがって、時間は出来事から独立しては存在しないのであり、宇宙とそれを形成するすべてのものの性質の一つである。(和訳は引用者)

これは時間についての一人の専門家の考えであって、時間とは何かについては、まだ定説がないというのが現状のようです。皆さん、新説を発表されてはいかがですか。

  1. 前節の文献 [1] に同じ.

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/19/2005 09:12
 哲学にはドイツ・フランス語圏、イギリス圏、アメリカ圏とありまして、私たち、日本の大学で哲学を伝統から本格的にやる者は、まずもってアメリカ圏の哲学を目にする機会はありません。伝統と新しい興隆を形成してきたドイツ・フランスの哲学が日本の哲学研究者にとってほとんどすべてな訳ですが、「哲学者は時間の現実性を否定し」、という表現は、まったく哲学専攻者は言わないことだと思います。もちろん哲学でも、現実の時間そのものについて思考するのですね。「時間の本質はその遷移性にあり」これは、哲学でも立派に通る、ひとつの時間論です。哲学や人間学の立場からかみくだいて言いますと、時間とはここに「在る」なんらかの対象物ではありえないし、なんらかの事象として「存在」することが第一次的な目的・意義をもつもつものではない。時間とは、遷移するものだというこの性質、それこそが時間の最重要な本質なのであって、「遷移としての時間」があってこそ、過ぎ去った、まとまった時間を事物対象的に見たり考えたりすることも可能であるし、将来の時間を遷移そのものである時間が移り行く先の地点として、これまた対象化することも可能である。
 自己、私という存在はたえず移り行く、物質的・外形的にも心理的にも変化する私であり、もし遷移性を「自己」の本質とした場合、私たちは自身でわかりきっている自己より常にすでに自己の底辺を流れている、「私という時間」の純粋な流れそのものに気づき、それをみることができるだろう。
 ベルグソン(フランス哲学者)が純粋持続という概念で言っているのは、確かにこの意味での意識底層における純粋な自己の時間性のことであろう。

Ted 04/19/2005 10:47
 「哲学者は時間の現実性を否定し」、という表現は、哲学専攻者はまったくしないと思う、とのご感想を貰いましたので、Whitrow がこの表現をした根拠を彼の著書中で探してみました。Subsection 7.5. の始めにおいて、確かに彼も、"it has seldom been denied that time is 'real' in the sense that it is a phenomenon of our experience—and indeed, in Leibniz's phrase, a 'phenomenon bene fundatum—' " と書いています。しかし、この文(実は従属節)の前には "Even though" がついていて、この従属節のあとには次のような主節と、さらなる説明が続くのです。"thinkers as diverse in their general outlook as, for example, Plato and Kant, and Bradley and Weyl have repeatedly argued that the temporal mode of our perception has no ultimate significance. Although this point of view is primarily associated with the long line of idealist philosophers going back to Parmenides, it has also been accepted by so empirically minded a thinker as Bertrand Russell. [. . .]" これが Whitrow に「哲学者は時間の現実性を否定している」といわせた根拠と思われます。

Y 04/19/2005 12:06
 ものすごく沢山の、時代も流派も地域も多岐にわたる歴代哲学者の名前が出ていて、ちょっとこれを一気にまとめて論じるというのは、「私たち、哲学を専攻のひとつとする研究者ならまずできない流れで」文が綴られていますので、…それはともかく、Leibnizは数学者でもあります。彼の、phenomenon bene fundatum は、ちょっと難しい言葉ですね。ライプニッツの紹介として、ネットから取ってきますと、「ライプニッツが無限の概念を媒介にして、同一性を差異の、静止を運動の一種であると考えるのは、現象の多様なあらわれを理論の箍にはめて殺すためではなく、現象の多様さを多様なままに捉えるためであった。(以上、http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/SasakiYoshiaki001.htm より)」
 先へ進んで、Plato and Kant, and Bradley and Weyl このあたりはまったく、専門的に言うとまとめて論ずることはできないんですね。とりあえず、Ted さんが引用してくださったこの文の多くを占めている「ドイツ観念論」…カント、フィヒテ、シェリングなどの近代哲学ですが、私がいくばくかでも彼らを読んできた経験から言いますと、「観念論」とそれこそ「観念的に」、現実性や実体験としての時間そのものに対して生(なま)の(←時間に関しても、現実性の高い)哲学的考察をあたえていない、といった風には感じられませんでした。彼ら哲学者の現実(の時間)に向き合う意志がよく感じられる論ばかりですから。
 temporal mode of our perception has no ultimate significance. …「われわれの現代の知覚様式には最終的な重要性があたえられていない。」確かに、私も詳しくないのですが、ドイツ観念論の時代には、たとえば「時間体験をしているわれわれ」に対して、より純粋性、絶対性を有した時間が在る、といったような、やはり神(超越者)が審級となって彼ら思想家たちの意識にたえずあらわれていたので、…つまり、われわれは本当にわれわれの時間というものを認識することができるのか、といえば、われわれになしうる認識を超えた認識(超越論的認識)があり、人間の認識能力はそれに比して限界があるのではないか…といったことを突きつめていった哲学者たちであるとは思いますね。カントだと、「物自体」は認識しえない、という結論に至った点こそが、哲学探究の素晴らしい結論として語り継がれているのですね。「哲学者は時間の現実性を否定している」とは、上記の意味で書かれているのかなぁと、引用いただいた文からは考えたのですが。
 最後の、バートランド・ラッセルは大変数学に強い哲学者で、数学の原理や原子論を書いてもいます。そう、実は哲学者には数学者など科学者でもありえた人物が多いのですね。その辺り、Ted さんのご関心が向かれればと思います。

Ted 04/19/2005 16:09
 "the temporal mode of our perception has no ultimate significance." を、私は「われわれの知覚における時間の様態は、究極的意義を持たない」と訳します。観念論者たちは時間を認識できるとはしているけれども、究極的な意義を持つ概念とは考えていない、と Whitrow は理解しているようです。
 そうですね。バートランド・ラッセルやハンス・ライヘンバッハあたりが、私には取っつきやすい哲学者です。

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