2005年4月3日日曜日

田園風景 / われわれに必要なことは何なのだ?


田園風景

 写真はさる3月31日、安土へハイキングした際に撮った、JR 琵琶湖線・安土駅から近江風土記の丘(写真向かって右に青い屋根の見える辺り)へ向かう田園風景を楽しめる道。写真中央右寄りに琵琶湖線の列車が走っているのが小さく見える。

われわれに必要なことは何なのだ?

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月13日()雨

 見事にカムバックした。実に足かけ三年である。というと、贔屓の選手か何かのことと思われるかも知れないが、これはぼくの所持品の一つだ。これまで未完成のまま、手の施しようがなくて、放置されていたのだが、思わぬ機会に完成をみたのである。

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(引張った線の分だけぐらいは何かもっと書きたいのだが、簡単に考えがまとまらない。)


(Ted)

 それについて考えられるあらゆる意義を理性では否定しながらも、ついどうかすると、それが頭へ昇って来る。感情とはこのようにも意義の有無に無関心で、たんに享楽的に、あることを望み続けるものなのだろうか。――「春の唄」のメロディが頭に繰り返し現れる。――

 「…用がないのに話していて肝胆あい照らすのが、意味の深いほんとの話というものだと思っております。…用がないのに訪れて、いやに思わず、いやに思われないのが、意味の深いほんとの訪問というものだと思っております。…用がないのに問いかわしてお互いの愉悦幸福に加えるところのあるのが、意味の深い本当の手紙というものだと考えております。」(五十嵐 力)――この方面のことで、ぼくの考えていたことは、ここに文字として具現されている!

 万年筆を握ったまま、歩みを止めている。自分がどこに立っているのかと考えてみる。わずかばかりの、しかし浄化されて澄んでいる過去が後ろにある。前に延びているのは、模糊とした、どこまで続いているのか知れない、けれども、大望を抱くものにとってはそれだけでも十分ではない、誰もが一人で勝手にそこへ飛び出して行けない、未来という未知の道である。われわれは腹ばってその道を形づくっている「時」をむしばんだり、そのむしばまれた穴を行動の器として、細い手足を動かして、いろいろなことをしてみたり、ちっぽけな頭を斜めにしながら、その打ち出の小づちのような重宝な働きを思う存分発揮させて、さまざまなものをそこから飛び出させ、展開させ、考察したり、推理したり、想像したりしながら進む。――つまんでいる万年筆を半回転させる。指先はしっとりとしていて、脂と水分による指紋が回転したあとから現れる。雨が降っている。「灰色の空はもういやだ」といいたげな、窓から見える家の焦げ茶色の壁板が、間断なく落下する細かな水滴を映しだしているので、そうと分かる。――
 …? いつの間にかここに文字が並んでいる! だが、がっかりすることには、いままでに何度も使ったような単語、ぐにゃぐにゃした字体。ヴォキャブラリーの貧弱さもさることながら、かなり広く跋渉して来たと思う心の旅が、一向にその広汎さを紙にとどめていないのに気がつく。こうして、自分の表現の微力さの前に、書くことへのたじろぎをたびたび感じる。内に潜むものと、外に現れるものとの――非形而下的現象と形而下的現象と、…


 ME 君への手紙を書き始めたのだが、こんなところへ迷い込んで挫折した。いや、挫折したことにしようと思うのだ。内の尺度が外のそれよりあまいから、そういう矛盾にぶつかるのだろう、との結論を得た。
 過去とか未来とかばかり書くようだが、そのほかにわれわれの踏んできた、また踏んで行こうとする道を表すことばはあるまいし、ここでは、どうしても、それに関する意識を最初に掲げる必要があるだろうと思ったのだ。しかし、われわれに必要なことは、いったい何なのだ? 時の操作はいうまでもなく自然が行う。その操作ぶりに見とれていても、われわれは何も得るところがない。――これは分かり切ったことだ。

 どうして出場者も答えも女性ばかりの「私は誰でしょう」なのかと思ったら、婦人週間だった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/04/2005 08:30
 これも大変な名日記です。Ted さん、というハンドルで、許可を頂いて、改変せず博士論文のどこかに全文引用させていただいてよろしいでしょうか。CD-RWを使っている暇がないので、もう今はネットの架空空間に永久保存するのです(笑)。細部を改変するのはもったいなさすぎます。
 私の立場から感想を申し上げますね。「それについて考えられるあらゆる…」で、「それ」が続いているのは、私たちの分野の論文では、大変魅力的な文体の表現です。「それ」とは何か、先に言わないので、読みたい動機が進むのです。この辺りからして、この日記は物理学者の Ted さんもご自身お気づきだと思いますが、ほぼ時間論で占められていますね。
 ですが、「…用がないのに話していて肝胆あい照らすのが、意味の深いほんとの話というものだと思っております。…用がないのに訪れて…」の部分は、私の研究テーマそのものなのです。このおしゃべりの時間、用がないのに訪れて、の時間そのものにおける、より基底的な生命活動、もう少し高次な「場所」(西田幾多郎)では心的活動、精神活動、たとえ身動きしていなくても身体活動をお考えいただくと、生きている人間性、というものがどういうものか、それへのご研究が一番進みます。主治医ともお話していたのですが、実は歴代科学者への批評論紹介は、書かれたものが非常に筋が悪いです。Ted さんご自身が一番の人間芸術なのですよ。ですから Ted さんご自身について双文化研究をなさったら、あるいは Ted さん「ご自身を原点として」、必ずご自分のお立場からなさったほうが。先生は科学者としてのみ生きてはこられなかったはずです。今後も…。
 未来という時間に、なかなか飛び出してはいけない、それはそうなのです。しかし、哲学の立場では、とっくにそれを先駆的発想で捉えております。我々は自己より常に先駆的な、前へと進む時間性としての自己を持っている(ドイツ語 haben)のです。これは、西田哲学のノエマ的自己、ノエシス的自己(後者は限りなくひろがる感性の世界です)の関係性で語られております。Ted さんがご自身、意識されるより「つねにすでに、もう」自己は「在ります」(存在論)。これが「自覚」(西田用語)できるようにお出来になると、精一杯の苦しさで生きている精神の病気の人たちも、実ははるかに楽になり、多少の大事な余裕が出来るのです。
 私は高校時代の Ted さんほどの豊富な語彙を全く持っておりません。もともと、語彙を増やさない主義になってしまった人間で…。それでも論文は手持ちの言葉で、十分書けます。
 「書くことへのたじろぎをたびたび感じる」、この辺りの表現性を、より拡げられるとよいと思います。さらに内省的意識を深めるのではなく、「自己に誠実に拡げる」のです。これでご研究の幅が広がることは、保証できると思います。とにかく、「自己」というものを皮膚境界や、意識しえた部分のみでお考えにならない幅の広さが、まず第一に重要だと考えている立場が、私です。「時の操作はいうまでもなく自然が行う。」はい、ここで哲学用語でもある「行う」をお使いください。「自然が行う」=主語が代わっていますね、Ted さんではないですね。このように自己「外」との関係性が考えられるようになると、自己-他者関係についても非常に容易に考えることができます。
 あるいは… Ted さんの個人的な政治活動(平和活動など)と、日本の大次元での政治性との関係性など、…ずっとこれ一本で考察することが可能です。「これは分かり切ったことだ。」、確かに自然な自明性(ドイツ語 Selbstverstverständlichkeit)ですね。けれども、これを部分的にでも失うと、病気の人はまさに生きてはいけないのです。
 とりあえず、自己という時間の先駆性(先見性よりはるかにずっと「先の時間」について、上記、ご理解頂けましたでしょうか?

Ted 04/04/2005 10:08:13
 全文を博士論文に引用していただいて結構です。
 あとに指すものが出て来る「それ」は、英文直訳調のような気がして、最近の私は使わなくなっていますが、魅力的な文体になりますか。引用の日記の先頭の「それ」は、あとにも指すものが出て来ていない隠匿の「それ」です。次の文の「感情」に関係はありますが、特別な感情、「恋を恋する心」といったものを意味しています。
 手紙の下書きのつもりで書いた部分は、実際にそこだけ万年筆で書いていましたので、いま青色に変えました。
 相対性理論では時間と空間を合わせて「時空(spacetime)」という一つの多次元空間として扱います。その考え方では、未来も空間と同様に「存在している」ことになります。そこに哲学での「自己という時間の先駆性」と相通じるものがあるようです。
 「ご自身について双文化研究をなさったら…」というご提言ですが、私も自分の双文化との関わりを研究の中に入れて行きたいと思っていたところです。
 示唆されるところの多いコメント、ありがとうございました。

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