高校時代の交換日記から。
(Sam)
1952年4月26日(土)雨
I love to peep into the room between the curtain and the window frame, when they are not thinking of me. It gives me happiness to watch them dressing and undressing. First a little round shoulder comes peeping out of the frock, then the arm; or a sock comes peeling off, and a little fat leg shows, with a dear little white foot for kissing, and I do kiss it, too!
リーダーは、この部分だけ読めば、まるで赤本の文章のように思われる。でも、その speaker とその対象物を知れば安心できる。[1]
二限と三限の休み時間は、てんてこ舞いを演じたため、清書なのに心が落ち着かなくて困った。一つ忘れ物をしたのが、相当に大きく影響したのである。不注意! それは、わずかの水漏れの余地しか作らなかったとしても、重大な影響をもたらすことがある。
何か映画を観に行きたいのだが、懐には2 cm ばかりの頭髪を刈り取ってもらったら風呂賃しか残っていないから、どこへも行けない。「何もなくてもよい、口笛吹いて行こう」という歌もあるが、なかなかそんな気持にはなれない。そうだ。きょう配付のあった国語選択のオモダカタダタカ著のテキスト代三十五円也も月曜日には持って行かなければならないのだ。
(Ted)
活発でなく、覇気に乏しく、まずかった。やはり不安である。[2]
SNN 君は、筆入れに輪ゴムを3箇所に巻いた厚紙を敷き、きれいに削った鉛筆をその輪ゴムで固定するように並べて入れなければ、鞄を持って歩くときにがたがたいうので、気がすまないようである。その筆入れは、国民学校時代からのものだと、きょうぼくに話してくれた。彼は、また、猛烈に細いペンの文字で紙片に写し取った参考書からの少し難しい問題を「教えて下さい」「教えて下さい」と持って来るのである。
引用時の注
アンデルセン童話の一つで、窓から部屋をのぞいた月が、着替えをしている子どもたちを見かけた情景を述べているところ。教科書から引用の英文は、別紙にタイプライターで打って挟んであった。ちなみに、さる4月2日はアンデルセンの生誕200年であった。なお、私は大学院生のとき、研究室での論文輪講の時間に原子核の stripping reaction(粒子剥奪反応)についての論文を紹介するに際して、同じ文を岩波文庫の和訳から英訳して、紹介する論文要旨の前にプリントして配布した。描写されている場面に stripping(服を脱ぐ)の情景があるからである。その英訳文は次の通り。"I often peep into a bedroom from between the curtain and the window frame when they are not thinking of me at all. It is very pleasant to watch them struggling to unclothe themselves. At first, their little round shoulders appear out of the clothes. Then, their arms come out smoothly. . . . Soon, I can see their legs I would like to kiss, and I really do so."
新聞部編集長の役のこと。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
Y 04/18/2005 08:49
歴史に弱い人間なもので、Ted さんの通われていた時代は、国民学校というのですか。
鞄だとか、筆記用具だとか、そうした学校での用具のそれぞれの持ちようがやけに重要にみえたのが、学校時代の生徒たちですね。私は中学2年まで転校ばかりでしたが、小学校の転校先で珍しく私が流行の先を行って色ペンを持っていたので、使わせてくれ使わせてくれと皆から言われて、短い色ペンが減るけれど仕方ない…転校生がなじむためにも…と思って見ていました。私たちの時代は「筆箱みせて」といいあう習慣が女子生徒のかなり年長までありました。皆それぞれ思いを凝らして筆箱とその中身をそろえたのを、みせあうのです。あまりにみせあう回数が多いのでヴァージョン替えもしなければならなかったでしょう。子どもは不思議な文化を作りますね。
Ted 04/18/2005 15:37
1941年4月1日、それまで70年間続いた小学校の名称が廃止され、ドイツ流の国民学校にあらためられ、「皇国の道にのっとり、皇国民の基礎的錬成をなすこと」がその目的とされたのです[加藤文三ほか『日本の歴史』下(新日本新書、1978)]。私は、6歳年長で小学校3年で死んだ兄のお下がりの黒いセルロイドの筆箱を、長く使っていました。フタが割れたのを針金でつなぎあわせて。いまもどこかにあるかも知れません。
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