2005年9月12日月曜日

カメの甲羅干し(写真)/ Vickyらが討論会に出場か

カメの甲羅干し


 写真は、カメたちが狭い石の上で、文字通り甲羅干しをしているらしい様子を見つけて撮ったもの(鈴の宮公園で、2005 年 9 月 8 日)。

Vickyらが討論会に出場か

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月8日(土)晴れ

 Vicky、SNN 君、YMG 君、IMR 君、KTD 君らが本校の選手としてチームの一つを作り、金沢大学主催とかの討論会にでるかも知れないという話だ [1]。YMG 君までの3人はわれわれの通信帳に何度となく登場しているが、他の 2 人については、まだ一度も書いていないから、少し書いておこう。IMR 君はアセンブリーのいろいろなクイズや校内討論会などに決まってホームルームから選ばれて出場する、がっちりした顔の持ち主である。KTD 君は国語などの朗読を当てられると、はっきりした発音の、太くない大きな声で、ゆっくりと、あまり高低をつけないで読むが、休み時間などには、どうかすると驚きを含んだような調子になる一種独特な抑揚の声で話している人物だ。朝早く 1 限の授業の教室へ入っていくと、必ずそこには KTD 君が一人、真面目に机上に本やノートを出して、何かを暗記するか考えるかしている姿が見出される。

 2 次関数の曲線に驚きを感じていた頃から、まだ 1 年も経たないが、とうとう積分記号を使うようになった。(BN 先生は、この記号の名前「インテグラル」を第 2 音節にアクセントをおいていわれる。英語式ならば、アクセントは第 1 音節になければならないのだが。)しかし、われわれの習っていることは、まだ、ニュートンが "curious shell or pretty pebble" といったもののカケラにもいたっていないことを知らなければならない。

 午後いっぱい、ソフトボールで「そばえ」た。

(Sam)

 国語の時間に一生懸命、速記の練習をした。書道の時間は無理だったが、その他の時間にも、出来るだけ手を動かしていた。午後も FJ 君、HS さんとともに、新聞部の UE 君に読んで貰って、速記をした。速記では菫台が優勝するに決まっているが、せめて二位にでもなりたいものである。タイプの方は未知数だ。小松実高が強敵だが、入賞の望みは無きにしもあらずである。
引用時の注
  1. 私は弁舌は苦手だったので、討論会選手の選定に漏れて当然だが、1 年 2 学期始めに行われて総合結果の成績が張りだされた校内一斉テストでは、Vicky、私、SNN 君、YMG 君、…というような順位だったのだから、このメンバーを見て残念に思わないことはなかっただろう。
  2. 「そばえる(戯える)」は「ふざける」の意。国語の古文に出て来たことばを早速利用したのだろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/16/2005 00:29
いいショットです。よく歩かれているのですね。

Ted 09/16/2005 07:57
 ショットは、お褒めいただくほどのものではありません。ウォーキングは、ほとんど毎日です。

2005年9月11日日曜日

現代仮名づかいとローマ字表記 (II):セーダハル・ホー



 写真は、10月初めの秋祭りに備えて、ちょうちんを早くもつり下げたJR鳳駅舎
(記事には無関係。2005年9月10日撮影)。

 ローマ字のつづり方に関しては、昭和 29(1954)年 12 月 9 日付け内閣告示第一号がある。それによれば、長音は母音の上にアクサン-シルコンフレックス(山型のアクセント記号)をつけて表すことになっている。アクサン-シルコンフレックスは、しばしばバー(横棒)で代用されており、また、英字新聞などでは、この記号はつねに省略されている。

 Tokyo、Kyoto、Osaka などは、長音記号が省略されている例であるが、それでも十分に分かる。しかし、これらは長音記号の省略されたローマ字表記というより、都市名の英語化されたものという方がよいかも知れない。ところで、この話の前編に記した「鳳本通」を、長音記号なしでローマ字表記すれば、"Otori-hondori" となり、これでは「お通り、本通り」と読まれそうだ。内閣告示には、長音が「大文字の場合は、母音字を並べてもよい」とある。これを利用すれば、"Ootori-hondori" となるが、英語で oo は、pool のように長い「ウ」や、book のように撥音を伴う「ウ」として発音されることが気になる。

 エ列長音のローマ字表記では、普通、上記の簡単なきまりに従わないで、現代仮名づかい同様に i が挿入されているようである。たとえば、小渕恵三・元首相の名が、英字新聞では Keizo Obuchi となっていた。また、明治チョコレートの「明治」は Meiji となっている。慶応大学の英語表記も Keio University である。Keizo と Keio の例では、オ列長音の方は、きまり通りに記されているのである。また、オ列長音が二つも含まれる大江健三郎氏は、英字新聞でも、きまり通り Kenzaburo Oe と書かれている(人名のローマ字書きは、新聞社がきめるよりも、本人の署名での使用があれば、それが尊重されているだろうが)。

 エ列長音のローマ字表記に i が挿入されている理由はどこにあるのだろうか。思うに、英単語の go、no、so などでは、o が日本語のオ列長音のように発音される。しかし、e だけで日本語のエ列長音のように発音される英単語はなさそうである。そこで、英語文脈において、o をオ列長音のローマ字表記に使うことには不自然さはないが、e をエ列長音に使うのは不自然である。したがって、後者の場合、きまりに従わない、ということではないだろうか。

 名前のローマ字表記に関連して、ある新聞の古いコラム欄を思い出す。それは、1951 年 9 月 8 日のサンフランシスコ平和条約調印後まもない日のもので、そこには、吉田茂首相は調印の署名をヘボン式ローマ字で、"Shigeru Yoshida" と記したが、これではアメリカ人は「シャイゲール・ヨシャイダ」と読むだろう、と書いてあった。私はいまでも、英文の論文に Yoshida という著者名があると、心の中で「ヨシャイダ」と読んでほくそ笑むのである。

 ちなみに、朝永振一郎博士は、日本式ローマ字で自分の名前を書いていたので、英語の本に登場する場合にも "Sin'itiro Tomonaga" となっており、「シャインイチロー」と読まれる恐れはない。ついでにいえば、Sin の次のアポストロフ(')は、「シニチロー」と読まれることを防ぐためのものである。私の元同僚の…ンイチ君たちは、このようなアポストロフの用法を知らなかったのか、自分の名前のローマ字表記に誰もアポストロフを挿入していなかった。

 ローマ字書き名前に関しては、次のような新聞記事もあった。ソフトバンク・ホークスの王貞治監督が現役選手だった頃、彼の活躍ぶりを新聞で知っていた一アメリカ人が、その記事の著者である日本人記者に「セーダハル・ホーは、いまもホームランを打っているか」と聞いたという。王さんの名前には、ローマ字書きのきまり通りでない "Sadaharu Oh" という書き方が使われている。そのアメリカ人は "OH" を "HO" と読み違えていたのである。この話も私の頭にこびりついていて、いまなおテレビで王監督を見たりすると、「セーダハル・ホー」が脳裏に浮かぶ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


ポー 09/11/2005 21:46
 上大岡(かみおおおか)という駅が横浜市営地下鉄にあるんですが、ローマ字表記は、ひらがなと同様、o が3つある「kamioooka」だったので、外国人がみたらきっとすごく奇異に見えるんだろうな、といつも思っていました。今はkamiookaとひとつ少なくなってます。

Ted 09/12/2005 08:17
 We find a lot of such spellings in "Surely you're Joking, Mr. Feynman!" They were used to strengthen words. On the first page, for example, there is this: "... and when the bulbs were in series, all half-lit, they would gloooooooooow, very pretty--it was great!" So, Americans might have thought "Kamioooka" to represent "Here is KAMIOKA!!!" not "KAMIOO'OKA."

四方館 09/11/2005 21:54
 私は、「shihohkan」と表記していますから、さしずめ、「シャイホーカン」と読まれるわけですか。(笑)

Ted 09/12/2005 08:19
 左様です。シャイホーカンさん。

2005年9月10日土曜日

現代仮名づかいとローマ字表記 (I):気になる仮名づかい



 写真は、わが家の近くの鳳本通商店街アーケード入口上部を撮ったものである。「おおとり」という白い大きな横書き文字の下の「ほんどうり」という赤い文字は、現代仮名づかいのきまりでは誤りで、「ほんどおり」と書かなければならない。

 『広辞苑』の付録部分にある「仮名づかいについて」には、昭和21(1946)年11月内閣告示を整理して紹介してあるが、「通る」は『オ列の長音は、オ列の仮名に「う」をつけて書く』という本則の例外の一つで、「とおる」と書くことが述べられている。他の例外は「多い」「大きい」「氷」「遠い」などである。「仮名づかいについて」の説明中には記されていないが、昆虫のコオロギも例外の部類である。鳳は大鳥とも書くので、これを「おおとり」と書くのは、「大きい」の例外と同一だろう。

 しかし、なぜこのような例外が存在するのだろうか。歴史的仮名づかいを知る人ならば、これらの例外は、長音記号相当部分が歴史的仮名づかいで「ほ」となっているものであることに気づくだろう(例えば、「多い」は歴史的仮名づかいでは「おほい」と書く)。現代仮名づかいは「大体、現代語音にもとづいて書きあらわす」としながらも、なお歴史的仮名づかいの尾を強く引いているのである。

 オ列長音の長音記号相当部分を「う」と書くのも、語音通りとはいえない。「荒城の月」の最初の句「春高楼の花の宴」を歌うとき、「はるこーうーろーうーの…」とは発音しないで、「はるこーおーろーおーの…」と歌っているではないか。むしろ、「おおい」などの例外の方が、語音通りなのである。この点、ローマ字表記のきまりには例外がなく、「現代語音にもとづいて」という考えが徹底している。(つづく)

追記

 私の持っている『広辞苑』は版が古く(第3版、1983)、1986年に「現代仮名遣い」(ウェブサイトで読める [1])という内閣告示が出ていることを、上記の文を書いた段階で知らなかった。この新しい告示には、古い告示でオ列長音の例外としたものが少し拡張され、『歴史的仮名遣いで、オ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであって、オ列の長音として発音されるか、オ・オ、コ・オのように発音されるかにかかわらず、オ列の仮名に「お」を添えて書くもの』という説明つきで例が挙げられており、「こおろぎ」も含まれている。また、新しい内閣告示の前書きには、「この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり」という表現があった。私は上記の文を書くに当たって、これらを読まないで、ほぼ正しく推定していたことになる。

文 献

  1. 現代仮名遣い, 昭和61年 (1986年) 7月1日内閣告示第1号.


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


ポー 09/10/2005 11:33
 こどもがよくまちがって王様を「おおさま」と書いたりしますね。通りは「とおり」と発音するのに表記を「とうり」と間違えるのは不思議な感じです。鼻血が「はなじ」でよいという例外も気になっています。「ち」が濁音化しているので「ぢ」なのですが。そう考えると日本語って難しいですね。

Ted 09/10/2005 13:28
 鼻血の現代仮名づかいは「はなぢ」だと思います。『広辞苑』の見出し語としては、「はなじ」のところにありますが、見出し語の下に「(ぢ)」とあり、これが現代仮名づかいを示しています。『歴史的仮名づかいの「ぢ」は「じ」と書く』に対する「例外」と混同しておられませんか。

ポー 09/10/2005 15:40
 わたしも「はなぢ」が正しいと思っていたし、そのように習ったと思っていたのですが、こどもが小学校でひらがな練習をしたものでは「はなじ」となっていて、これが許容されているんだと驚きました。Googleで「はなじ」で検索したら「もしかして はなぢ」と出ました (笑)。まだ許容されている表記というわけではないということですね?

Ted 09/10/2005 20:26
 私の持っている『広辞苑』は版が古く(第3版、1983年)、1986年に「現代仮名遣い」という内閣告示が出ていたことを今知りました。しかし、それにも鼻血は二語の連合によって生じた「ぢ」の例として挙げられていますから、相変わらず「はなぢ」が正しいと思います。

2005年9月9日金曜日

コロッセオ外観(写真)/『赤と黒』を読めばレナール夫人に


コロッセオ外観

 写真は、ローマ・コロッセオの外観(2003年5月15日撮影)。建設当時は、屋根にヴェラリウムという布の覆いがかけられ、現代のドーム競技場に似た形になっていたらしい [a]。中世には地震で崩れ、豪族の要塞にされたり、石材が持ち去られたり、羊毛工場や硝石工場にされたりと、勝手にひねくり回される受難の時代を迎えたのであった [b]。現存部分については、すべてがオリジナルではなく、よく注意して見ると、中世にここを城塞として利用した際のレンガ積みなど、後世の改修部分がかなりあるという [a]。

[a] 『ルネッサンスの古都をめぐるイタリア』(トラベルジャーナル, 2002)
[b] 『ワールドガイド街物語イタリア』(JTB, 2001).

『赤と黒』を読めばレナール夫人に

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月7日(金)晴れ

 こうも忙しくありながら、『赤と黒』を読めばレナール夫人に、『懺悔録』を読めばヴァラン夫人に思われてくるいきものに対する野蛮な空想と瑣末な欲望。悩ましくない限りにおいて、その想念を自らに許す。

(Sam)

 いつの間にか、割り切れない溝が出来てしまった。最初は彼の方から、そして今ではどちらとも、どうしても必要な会話以外は交わさないことになった。英語の時間に隣同士に座っても黙っている。商業の時間には、わざわざ彼がぼくの隣へ来たものだが、今では、ずっと後方の座席にいる。お互いの信頼を失った空虚なあるものが二人の間に介在している。先週以来のことだ。

2005年9月8日木曜日

上村(かむら)地蔵尊


 わが家の近くの笠池公園の北側の短い坂道を登りつめたところに、近年改築された立派な地蔵堂がある(写真上)。そこに収められている地蔵尊(写真下)の由来が、地蔵堂の前の説明板に詳しく書かれている。それが面白いので、ここに紹介する。(原文は、一つのセンテンスが長すぎたりして、名文とはいえないので、全体にわたり書き換えた。そもそも題名が「上村地蔵尊縁起由来」となっているが、縁起と由来は同義語であろう。「一対の石像」という表現もあるが、石像は対になってはいない。「一体の石像」の間違いと思われる。)

   上村地蔵尊縁起

 668(天智天皇7)年頃、上村(かむら)に照という女性がいた。照女は法貴丸の乳母となって、彼を大切に育てた。法貴丸は成人して行基となり、乳母の功績を讚え、地蔵尊の石像を作って彼女に与えた。照女は尼となり、法名を妙善とするとともに、堂を建てて石像を安置し、生涯信心を怠ることがなかった。

 照女の死後も、石像は村人の信仰を集め、大切に守られてきた。しかし、戦国時代末期(1580年頃)に、村を襲った悪人が石像を井戸に投げ込んだ。人びとはこれを知ることなく、約60年が過ぎた。ある日、一人の村人が井戸の中から自分を呼ぶ声を聞き、不思議に思って井戸をのぞくと、一体の石像があった。はしごをかけて降りていくと、不思議や、石像の方から村人の背にもたれかかり、軽がると地上に持ち上げることができたという。1644(正保3)年のことであった。

 妙善以来久しく崇敬してきた尊像に再び接した村人たちは、奇異の思いを深くし、また、信心をいっそう篤くし、村をあげて堂を建立して、地蔵尊を崇拝した。この石像こそ、行基菩薩の作として近郷近在の信仰を集めた「上村の地蔵尊」である。家内安全、無病息災、とくに安産と母乳の出を願うと霊験あらたかといい伝えられている。

 その後、堂は地蔵尊講の手によって手厚く守られてきたが、老朽化したため、1999(平成11)年12月から再建を進め、翌2000年3月吉日、落慶法要を相営んだ。

 2000(平成12)年3月吉日
 (「上運営委員会」作成の原文に手を加えた。)


 石像が声を出したり、自ら村人の背にもたれかかったりしたというのは、怪談めいているが、像のありがたみを増すための後代の脚色であろう。なお、私の持っている年号西暦対照表によれば、天智天皇7年は西暦667年、正保3年は1646年であり、説明板の文はこれらの点でも狂っているようだが、ずれている年号と西暦のどちらの年を採用すべきかが分からないので、原文のままにした。『広辞苑』には行基の生年が668年とある(没年は749)ところから見れば、「668(天智天皇7)年頃」は「668(天智天皇8)年頃」とすべきかも知れない。

 ここまで書いて、行基のことを少し詳しく知りたいと思い、"Google" で検索したところ、すでに、大阪近辺の異名地蔵尊30体の一つとして、上村地蔵尊を「乳地蔵尊」の名で紹介しているウェブページ [1] のあることを知った(ウェブサイト [2] の一部をなしている)。そこには、現在の説明板にあるのとほとんど同じ由来が記されているが、井戸から石像を引き上げた村人の「弥兵」という名が見られ、地蔵堂の所在地の大まかな地図も添えられている。また、その場所は照女の住んでいた屋敷址とも伝えられている、との説明もある。

 行基について記したウェブページ [3] によれば、彼は和泉国大鳥郡蜂田郷に百済系渡来人の血をうけて生まれた旨記されている。上村(現在の町名は「町」をつけない「上(かみ)」)からほぼ北約2kには大鳥大社が、また、ほぼ東約2kmには蜂田神社があることから、大鳥郡蜂田郷という村は、まさにこの付近にあったことが分かる。

 行基についての上記ウェブページの説明中では、彼が「弟子たちを自ら率いて、交通の難所に橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築いていった。…中略…また、平城京造営のために諸国からかり出された使役の民の、路傍に餓死する者の多いのを見て、彼らを救うために布施屋を9ヵ所も作った。彼のこうした社会事業は、国家仏教の形をとっていた当時においては、僧尼令に違反するものであったので、五度にわたって中止を命ぜられ、弾圧もされるが、彼は国是の禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていった」という記述が印象的である。行基の仕事は後に公認され、さらに、東大寺の建立に協力したことによって、彼は聖武天皇に敬重され、745(天平17)年に、わが国で最初の大僧正の位を授けられたのである。

後日の追記

 行基の生涯を記した本 [4] が哲学者・岩崎允胤によって最近著されたことを知った。

文 献

  1. 15. 乳地蔵尊 (2002) (後日の注:リンク切れとなった).
  2. 三村正臣, 野仏巡礼 (2002) (後日の注:リンク切れとなった).
  3. 北河内古代人物誌・僧行基 (2005) (後日の注:リンク切れとなった).
  4. 岩崎允胤, 天平の桑門―僧行基の生涯 (本の泉社, 2005).

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/08/2005 11:14
 一見したところなんの変哲もない小さな地蔵に、不似合いなほどの瀟洒な立派なお堂と見受けましたが、行基ゆかりとなれば合点のいくところです。役行者伝説や行基伝説は、灌漑や治水で各地に伝説を残した空海—弘法大師の祖形ともいえる、日本の民衆宗教のもっとも古層の人たちですネ。

Ted 09/08/2005 13:23
 伝説には尾ひれがついているかも知れませんが、それにしても、昔は強靱な人たちがいたものと感心します。

2005年9月7日水曜日

コンスタンティヌスの凱旋門(写真)/ 30分間同じ問題を考えている


コンスタンティヌスの凱旋門

 写真は、ローマのコロッセオ(右にごく一部が見える)の傍らで存在感を示しているコンスタンティヌスの凱旋門(2003年5月15日撮影)。コンスタンティヌスがテヴェレ河畔でマクセンティウス帝を打ち破ったのを記念して、315年に建設された。飾りのほとんどが、それまでのいくつかの凱旋門から引きはがされたもので構成されている。トラヤヌス帝、マルクス・アウレリウス帝時代の飾りなどが使用されていながらも、全体として威厳と調和のとれた凱旋門の最高傑作となっている。[説明は『ワールドガイド街物語イタリア』(JTB, 2001) を参考にした。]

30分間同じ問題を考えている

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月6日(木)晴れ

 30分間同じ問題を考えているが、矛盾の原因が分からない。

(Sam)

 第一回の執行委員会が開かれ、球技大会の内容を決めるだけで終ってしまった。まず、組み合わせに難航し、それから競技種目の選択についても問題があった。球技大会の問題が差し迫った問題であったにしても、第一回の委員会としては、このほかのもっと根本的なものを決めておかなければならないような気がした。

 次の日曜日には速記とタイプの検定試験にのぞまなければならないのに、練習はほとんどしていない。顧問の先生に特別にお願いして、ポータブルを家へ持ち帰って練習することにした。一分間ずつ測っただけだが、最高は275ストロークだった。そのかわり誤字がかなり多く、このことは、今度の試験ではこれまでと採点の方法が異なるのだから、フェータルな欠点となる。
 速記の方は誰か読んでくれるものがいるといいんだけれども、いないから、自分でこつこつやったり、ラジオを利用したりして、努力しているが、あまり見込みはなさそうである。

2005年9月6日火曜日

ロートブラット博士死去 (Joseph Rotblat, 1908–2005)


【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】さる8月31日、物理学者ジョゼフ・ロートブラット博士が死去した。博士は核兵器廃絶を訴える国際科学者団体・パグウォッシュ会議の創設者の一人で、1995年のノーベル平和賞 [1] を受賞した。博士の死去に関連して、私は4通のメールを受け取った。

 第1のメールはピースプレッジ・ジャパン(PPJ)[2] の呼びかけ人鈴木達治郎氏が PPJ 運動の誓約者宛に送ったもので、ロートブラット博士はマンハッタン計画に参加したが、ドイツが原爆を開発することは不可能と知り、自ら計画から離れたことを述べている。

 第2は私のアメリカの友人の一人で国際放射線物理学会(IRPS)元会長のジョン・ハッブルが、IRPS ニュースの次号にロートブラット博士の追悼記事を書くことをイギリスのデイヴィッド・ブラッドレーに頼んだメールのコピーである。

 第3はヨーロッパ物理学会のオンラインニュースにロートブラット博士の追悼記事 [3] が掲載された連絡である。私はこれによって、原子核物理学を専攻した博士が、1950年以降は医用物理学分野で活躍していたことを始めて知った。

 第4は、エジプトのモハメッド・ゴマー教授からの、ジョンと彼のメールの受取人全員に宛てた返信である。ゴマー教授がロートブラット博士のもとで、私も部分的に学んだエヴァンスの『原子核』[4] という教科書を勉強したことが書いてあるのが興味深い。

 ロートブラット博士が目指した核兵器の廃絶が、少しでも早く実現することを私は願うものである。

本文(英文)へ

津久野南団地の庭園(フォトショップ・プログラムで修飾)。
Image above: A photo of the garden in Tsukuno-minami housing complex,
modified with the Photoshop program (the menu of "photocopy" was used).

文 献

  1. The Nobel Peace Prize 1995, Nobelprize.org (1995).
  2. Peace Pledge (後日の注:リンク切れ).
  3. Joseph Rotblat dies, PhysicsWeb News (September 2, 2005).
  4. R. D. Evans, The Atomic Nucleus, Reprint edition (Krieger Publishing, 1982; originally published by McGrow-Hill in 1955).

2005年9月5日月曜日

エーゴ ("Engrish")


【キキさんの「英語と米語」にトラックバック】(後日の注:トラックバックの元記事はその後消滅)

H 大に入ってから、すんごくなかが良い友達がいる。彼女の生い立ちも私とよく似ている。違うのは国籍だけ。彼女はアメリカ人(日本人)。私は日本人(イギリス人)。…


 キキさんの上記のブログには、イギリスで教育を受けた彼女が、日系アメリカ人の友人に、携帯で "いま横断歩道を歩いているよ" と、米語でいわれたのが分からなかった、という話などが書かれている(横断歩道は米語では crosswalk、英語では pedestrian crossing と、異なる言い方をする)。私はそれを読んで、次のようなコメントを書いた。

 「面白い話です! "Cambridge International Dictionary of English" には、日本人が使う英語で、生まれながらの英国人には意図したようには理解されないものを "Japanese false friends" と名づけて、その表を掲載するのに1ページを割いています。たとえば、サークル=興味を同じくする大学生の非公式なグループ*、エスケープ=学校や職場を抜け出すこと、グラマー=魅力的に大柄で健康で、大きな胸を持っている女性、などです。"Korean false friends" や "Dutch false friends" の表もありますが、"American false friends" は見つかりません。」

* 等式の右辺はいずれも、生まれながらの英国人には理解できない、日本人が意味する内容


 これに対してキキさんは、「あなたは多分 Engrish.com に興味を持つでしょう。このウエブサイトは、とってもコッケイです」という返信を書いてくれた。(コメント、返信とも、原文は英文。)早速、そのサイトを覗いたところ、それは、日本や他の非英語国の町の看板やTシャツの柄などに見られる奇妙な英語を、写真で集めているものだった。私はうかつにも、そのサイトの "What is Engrish?" というページの説明を読むまで、サイト名の Engrish を English と思い込んでいた。 私の英語も結構 Engrish(いわば、日本人式英語)なのだ!

 上の写真の看板も Engrish.com へ投稿するのに適したようなものだが、わざわざ投稿するのも面倒なので、ここに紹介しておく。わが家の最寄りの JR 駅近くのビルの1階の角の、正面より45度ほど斜めになった面にある看板であり、 "Your answer is withine the costomer." という文が書かれている。1階は医院であり、看板の女性が看護士らしいところから、その医院のサービスぶりを表現したものと思われる。

 綴りを間違えている単語が二つもあることを別にしても、文自体が妙である。「あなたがた、お客様へのお答えは、お客様自身の中にあります。」つまり、どんなご要望にもお応えします、といいたいのではないかと思う。そうならば、"Our answer is within you, customers." とでもすべきであろう。"Your answer is within the customer." では、経営者の心構えを教える人が、経営者 you に対していい聞かせているような文であり、客向けの看板に記す文ではない。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ポー 09/05/2005 12:15
日本人は英米で使われる単語の違いについて知っている人が多いので、英米のクッション役になれるかもしれませんよね^^

Ted 09/05/2005 13:20
 そうであればよいのですが。私は戦後間もなくの小学生時代に大連で習った英語の先生が英国式でしたが、それ以後は米国式で習いましたので、ごちゃまぜです。綴りも、私の専門でよく使う ionization は米国式。英国が中心のヨーロッパの英文専門誌へ投稿するときには、ionisationとしなければなりません。

2005年9月4日日曜日

Sam が渡り初めを見た橋が…

 先に、SNS「エコー!」(後日の注:このブログの最初の投稿サイト)が提供し始めた「検索ワード解析」を、私のブログの8月18日からの1週間分に対して使ってみた結果を報告した [1]。引き続き、8月25~31日について調べたところ、次の通りだった(期間内の総アクセス数:4,903。21番目以下は略)。


検索ワード アクセス数 アクセス率 (%)
1 御影大橋 56 4.29
2 夏目漱石 こころ 34 2.61
3 夏目漱石こころ 33 2.53
4 靖国問題とは 28 2.15
5 漱石 こころ ブログ 21 1.61
6 こころ 夏目漱石 感想 18 1.38
7 こころ 夏目漱石 17 1.30
8 こころ 感想 夏目漱石 14 1.07
9 夏目漱石 こころ 感想 14 1.07
10 エルンスト・フェルディナント・エーメ 10 0.77
11 シラサギ写真 10 0.77
12 満月のドレスデン 10 0.77
13 アヒル 写真 8 0.61
14 夏目漱石 こころ あらすじ 7 0.54
15 トンコ節 7 0.54
16 ナツスイセン 6 0.46
17 通販生活 憲法を変えて 6 0.46
18 車輪の下について 6 0.46
19 浜寺公園 6 0.46
20 ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール 6 0.46

 この結果には、夏休みの終りに当たって、生徒たちが宿題の感想文を書くために、自ら考えようとしないで、インターネットで検索をしまくっている事情が反映していると思われる。幸い、私の『こころ』に関する文 [2] は、そのような目的のためには、あまり参考になるようには書かれていないと思うが…。

 前回も5位にあった「御影大橋」が今回はトップに来ている。私の「Youth (青春時代)」カテゴリには、確かにそういう名の橋が一度出ているが、観光対象になるほどのものではない。日本のどこかに同じ名前の橋があるのだろう、ぐらいに思っていた。しかし、"Google 日本語" で検索してみて、親友 Sam が53年前の8月23日に渡り初めを見たその橋が、このたび、改めてニュースになっていたことを知った。この橋は都市計画道路・鳴和三日市線にあって、金沢市犀川に架かるものだが、従来の橋は老朽化が進み、慢性的な交通渋滞を招いていたので、今回、架け替えて4車線化し、渋滞の緩和を図ったとのことである [3]。

 新しい橋は、延長約108メートル、幅員22~24.5メートル。山側の歩道部分(橋の名前通り御影石が使用されている)は緩やかにカーブを描き、歩行者が景観を楽しめるよう配慮されているそうだ。さる8月27日に開通したのは、車道部分と山側の歩道部分で、今後、海側の歩道も整備し、2005年度中の完成・供用を予定している、とも報じられている。[3, 4]

 いままで御影大橋が金沢のどのあたりにあるのか、はっきりとは知らなかった。この機会に地図を出して見ると、私が2年前に写真を撮って、それを参考に水彩画にした犀川大橋 [5] から川下へ二つ目の橋で、Sam が住んでいた町(「長町」に併合されたようだ)からすぐ近くである。次に金沢へ行く機会に時間があれば見て来たいと思う。

 なお、旧御影大橋は、手取川を渡る自転車道用の橋に丸ごと「リサイクル」されたようである。土木学会関連のウエブページ [6] に引用されている北国新聞の記事に、「橋の再利用は県内初めてで、終戦直後、復興のシンボルとして完成した同橋の記憶をとどめ、現代は再現するのが難しい工法が駆使された文化財として保存するのが狙い。公共事業費が削減される中、建築資材を有効に使ったモデル工事にも位置付ける」とある。

 ちなみに、"Ted's Coffeehouse" 掲載の、亡き友 Sam の旧御影大橋渡り初め見物記 [7] は、目下 "Google 日本語" 検索で5番目に出る。

「竣工成った御影大橋の渡り初めを見に行く。泥のような雲が空にかかっていて、時どきそぼ降って来た。それでも沢山の人だった。ぼくが見たのは、十数個の風船が空に舞い上がって行ったのと、…」

という彼の名文が、偶然にも橋の架け替えで、多くの人びとの目に触れることになったのである。

文 献

  1. 検索ワード解析, Ted's Coffeehouse (2005年8月24日).
  2. 『こころ』再読, Ted's Coffeehouse (2005年8月11日).
  3. 都市計画道路鳴和三日市線「御影大橋」が開通, 石川県・県政フォトギャラリー (2005年8月27日) (開通式写真入り) (後日の注:リンク切れ).
  4. 御影大橋:開通式行う, Yahoo!ニュース - 毎日新聞 (2005年8月29日)(後日の注:リンク切れ).
  5. 雨期の犀川大橋, Ted's Coffeehouse (2004年10月17日) (後日の注:その後削除).
  6. 一般記事:橋のリサイクル, JSCE ウェブサイト (2003年1月8日) (引用の新聞記事は2003年1月2日付け).
  7. 御影大橋の渡り初め, Ted's Coffeehouse (2005年6月3日).

写真は、わが家の庭で、いま咲き誇るアサガオ。

ノボタン(写真)/ だだいまの指名を…


ノボタン

 写真は、わが家の植木鉢に咲いたノボタンの花。陽がかげっていたときに撮った2枚目の写真では、花が妙に青っぽくなってしまったので、陽が射したときに取り直したのが1枚目の写真。こちらが実際の色に近い。どちらも Photoshop プログラムで赤色を少し強調したが、2枚目の写真では、修正し切れなかった(2005年9月1日撮影)。

 『大辞泉』の「のぼたん」の項を見ると、次の句があった。

   のぼたんの一と日の命けさあえか  風生

 句の通り、この花は1日で、はらはらと散ってしまう。

だだいまの指名を…

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年11月5日(水)雨

 後期第一回の生徒議会が開かれる。議長は JRC の HS 君に決まった。マンゲツ君が彼を指名したとき、彼は健康上の理由から、「だだいまの指名を支持いたしません」と発言したが、結局、議長をしなければならないことになった。HS 君の議長席での最初の挨拶は、「皆さんは私の健康など、どうでもよいのですか。私は自分が倒れても知りません」というものだったが、誰かが「倒れたら起こしてぐらいやる」とやじって、爆笑で片づけられてしまった。
 一、二年生が多いせいか、議事運営が非常に幼稚なように感じられた。動議の提出にしても、採決の方法にしても、時どき、ぎこちなさがあった。
 本年度六つのアカデミー賞に輝く最高の映画が四十円で観られるのだってさ。Ted はちょっとおとましいことをしたね [1]。早く観たというプラスは君に与えられたけれども。


 引用時の注

  1. 「おとましい」は金沢弁で「惜しい」「もったいない」の意。

2005年9月3日土曜日

無心(写真)/ すぐに舌を出す MY 選手


無心

 写真は、落ち葉を溝蓋の穴から落として無心に遊んでいるおさな子(2005年8月29日撮影)。母親は少し離れたところで犬の散歩をさせていたようだが、無断で撮影した。お許しあれ。

すぐに舌を出す MY 選手

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年11月4日(続)

 二水新聞が昨日の開票結果についての速報をガリバンで刷って出したので、様子がよく分かった。会長は GD 君である。125票を獲得し、二位の NG 君を39票も引き離している。
 うちのホームの代表は65票を獲得して悠々執行委員に当選している。トンチ君が応援演説を行った候補も一、三年生からかなりの支持を受け、二年生の投じた3票を合わせて53票で執行委員に当選。とにかく凄いメンバーが揃っているから、活発な執行委員会になりそうである。


(Ted)

1952年11月5日(水)雨

 ホームルーム時には、MY 先生が浜口選手の送ってきたオリンピック遠征中のお嬢さん [1] の写真10数枚を回覧して下さった。3人の女子選手と一緒にどこかの橋の上で写したものは、他の選手が後ろを向いていて、MY 選手だけがこちらを向いて舌を出しているという場面だった。米国の選手か誰かに撮って貰った天然色写真も1枚あった。それもまた、原とかいうコーチャーに肩に手をかけられて舌を出した瞬間をキャッチされたものだ。それを送ってきた MY 選手宛の英文手紙には「あなたは自分の舌を口の中におさめて笑うことを覚えなさい。そうした後に、あなたはこの写真を誰にでも見せることが出来るでしょう」と書かれていたそうだ。

 引用時の注

  1. 飛び込みの選手だった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/04/2005 03:01
MY 先生のお嬢さんがこの時何歳だったのか。とてもキュートで可愛らしいと思うのですが、欧米では若い娘が舌を出すのはエチケットに欠けるのでしょうね。日本のスポーツ選手の場合だけかもしれないけれど、特に女子選手の場合、実年齢より若いというか幼さを感じているのは私だけかな。

Ted 09/04/2005 07:49
 MY 選手は大学生ぐらいの年齢だったかと思います。そうです。エチケットに反するのでしょう。マリナーズのイチロー選手も幼く見えないように、ヒゲを伸ばしたりしているようです。

2005年9月2日金曜日

「有権者の目をくらまそうとしている」("He Wants to Dazzle Voters")

【Read in English.】

 英国のフィナンシャル・タイムズ紙は、最近、わが国において9月11日に行われる選挙についての社説 [1] を掲載した。その社説は、次のような事実を述べて、ある党の党首が有権者の目をくらまそうとしている、と鋭く批判している。

 「彼は有権者の注意を無情にも、自分自身と、党と郵政の改革に対する自らの試みに向けさせ続けている。日本がいくつもの差し迫った国際問題に直面しているにもかかわらず、選挙運動においては、外交政策がまったく欠けている。それらの国際問題とは、石油価格の上昇、悪化している対中国関係、米軍基地に関する米国との交渉などである。」

 これは正当な見解である。私たち日本の有権者は、このような形の選挙運動にだまされてはならない。

文 献

  1. Japan's small world, Financial Times (August 29, 2005).

写真は8月29日、ウォーキングの途中で道端の草むらに見つけたアサガオの花。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ゆっぴー☆ 09/02/2005 11:15
 Ted さん、いつもどうもありがとうございます。本当にこの記事に書いてある通りで、小泉さんの術中に大勢の人々がはまっちゃってしまいましたね。予想外の展開ですね。ウーン…。ネットの言論界を探っても選挙結果の予想は難しいですね。ネットウヨが勢力拡大しているように思えましたよ。

Ted 09/02/2005 13:16
 小さな世界しか語らない人の術中に大勢がはまるとは、嘆かわしいことです。

ヨハン 09/02/2005 18:01
 まさにその通りだと思います。やるべき事の優先順位や実現後の効果を考えれば今叫んでいる郵政改革にどれほどの意味があるのかまったく理解できません。こじつけ理論としか思えないのは私だけでしょうか。残念ながら多くの有権者はかのテレビ CM に洗脳されつつあるようです。マスコミの影響力は凄いと感じました。中国との外交や原油価格など間近に迫る近未来の方がとても心配です。あのお方は、いざとなれば増税で切り抜ければ良しと考えているのでしょうか。

Ted 09/02/2005 19:55
 庶民は、自分たちの暮らしを圧迫する政治をいつまでも選ぶことのないように、賢くならなければなりません。

2005年9月1日木曜日

ツクツクボウシのいた場所(写真)/ 久留島武彦氏来演


ツクツクボウシのいた場所

 写真は、さる8月29日ツクツクボウシが鳴いていた木(右端のクスノキ)を撮ったもの。どこにとまっているかと見上げているうちに、鳴き止んでしまった。前方の人影はゲートボールを楽しむ人たち。

久留島武彦氏来演

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月4日(火)晴れ

 久留島武彦氏 [1] が来校して講演。声量と話術は素晴らしいが、セの発音が不正確だと思った。「高峰博しぇの功しぇきは、遠くから望むほど偉大である。知らず廬山、ただ身この山中にあり。諸君は博しぇのごう(郷)土にいて、あまりに博しぇの魂に近く触れているため…」というような具合だ。住血吸虫を住吸血虫と何度もいわれたのには誰も笑わなかったが、センチメートルをセンチメントといい損なわれたのに対しては、われわれは笑った。アドレナリンのことからホルモン分泌のことにおよんで、青年期の軽い心理風刺をされたときには、たびたび拍手が起こった。

(Sam)

 第七限に、郷土の偉人そして世界の偉人である高峰譲吉博士の伝記とその学問について講演があるというので、四十分授業が行われた。授業時間が非常に短く感じられた。
 講師の紹介が校長からなされたが、名前は聞き漏らした。とにかく、校長が今から四十年前、この講師から演説を聞き、深い感銘を受け、今でも示唆を受けるところしばしばであるということである。
 講師の弁舌は巧みで、いつもは騒がしいうちの会社のアセンブリーも落ち着いていた。高峰博士をマウントエベレストに例え、レスタミンの説明に甲状腺ホルモン、青年期の説明も補足するなど、次つぎと興味深かった。講演を感銘深いものにするには、余情を残すことだそうだ。


 引用時の注

  1. 久留島武彦(1874–1960)は児童文学作家。筆名は尾上(おのえ)新兵衛。日本のアンデルセンと呼ばれた。詳しくは 「久留島武彦」(ウィキペディア フリー百科事典)を参照。このとき、78歳だったことになるが、たいへんお元気だった。Sam の通っていた二水高校でも、同じこの日に氏の講演があったのだ。Sam の感想は私のもののようにひねくれておらず、素直である。2人の感想を合わせれば、氏の講演がより立体的に把握できるともいえるが。

2005年8月31日水曜日

歩道橋で(写真)/ にぎにぎしい選挙運動


歩道橋で

 写真は八田西町の歩道橋の上から北向きに泉北2号線を撮ったもの(2005年8月29日)。わが家からここまでで、3000歩余りになる。左手の団地の前の並木は、この春に何度か紹介したサクラの木々を含む。

にぎにぎしい選挙運動

 高校時代の交換日記から

(Sam)

(続)1952年11月3日

 校内の各所にポスターが張られ、校内放送は幾回となく候補者の名を叫んでいた。幾枚かのガリバン刷りの名刺も貰った。にぎにぎしい選挙運動が行われ、土曜日の第四限はアセンブリーとなって、各候補の立会演説会が行われた。拍手や笑声やヤジや怒声が盛大で、活発な演説会だった。立候補者と推薦者の言葉は真に迫るものがあった。――笑顔などみせたことのない校長の顔が笑っていた。――
 柔道場のあとの図書館の一隅に新聞部室があった頃
[1] の紅一点だった女生徒 [2] の応援演説には、彼女の所属している15Hの代表ばかりでなく、新聞部の UE 君も、前期生徒会長のトンチ君も、彼女を支持する演説を行った。
 うちのホームの代表のときは、その選出の際に彼を指名した YS 嬢や馬術部員やその他七人もが応援演説を行った。編成としては最多数のものだった。壇上に立った彼らの動作その他も、なかなかおつなのが沢山あった。
 今度の選挙には、三年生は全然立候補者を出していない。だから、三年生のいわゆる浮動票如何では、誰が会長にならないとも限らないのである。が、やはり三年生は賢明だったらしい。聞くところによると、会長には GD 君、副会長には前期もそうであった NG 君が決まったらしい。GD 君は金石(かないわ)中の出身で、そこでは生徒会長として大いに活躍して来たのだそうである。一時野球部に属していたこともあったらしいが、体をこわして、今ではやめているそうである。彼ならば心配は要らない。しかし、ぼくが彼と同調していけるかどうか問題である。まだ一度も親しく会って話をしたことがないのだから――。

 ここ二、三日、祖母がちよっと患っていて、ぼくは思わぬいろいろな仕事をしなければならない。
 金ちゃんと二人で Neg のところへ行ったのだが、べつに新しいことはなかった。Neg が闘病生活のつれづれを如何にして暮らしていたかがよく分かった。それは、Neg からの手紙で知り得たことを、はるかに超えたものだった。
[3]

 引用時の注

  1. Samと私が中学3年生だった頃を指す。
  2. この女生徒は、私の日記に Tom の名で登場する友人が中学生時代からたいへん親しくしていたので、私は、彼らは将来結婚するものと思っていたが、そうはならなかった。その後 Tom に聞いたところでは、彼女は若くして死亡したとのことだった。佳人薄命。
  3. Neg はこの頃病気のため高校を中退したのだった。私は彼とホームルームが同じだったにもかかわらず、あまり親しくはしていなかったので、そのことに気づかず、見舞いにも行かなかった。ところが、近年、新盆に合わせて金沢へ墓参に行くと、野田山墓地の入口の墓守さんの家へ手伝いに来ている彼に会い、親しく語り合うのである。彼の奥さんが墓守さんの奥さんの妹だそうだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/01/2005 01:15
 校内選挙で手作りの名刺までが飛び出しましたか。わが校の場合、中学も高校も、そういった賑やかさや派手さとはとんと無縁でした。

Ted 09/01/2005 07:44
 先に記載したこの日の前編のSamの記述によれば、「立候補届出期間が三回も延期され、…しびれを切らした選挙管理委員会が、各ホームから一名ずつ強制的に候補者を選出」させるという事態だったとのことですが、それにしては、候補者が出た後は、ずいぶん盛り上がったものです。

2005年8月30日火曜日

わが町の水田(写真)/ 最高得票者が会長


わが町の水田

 さる8月27日午前、ウォーキングで鈴の宮公園へ行くと、草むらにコオロギらしい虫の音を今年始めて聞いた。写真はその帰途、わが町の中にある水田の傍らを通りかかって撮ったもの。田植えが終って間もない頃の写真を撮ったのが、つい先日のように思われるが、いまは一部にスズメよけの網が張られ、黄金色になるのも近い風情である。

 昨29日のウォーキングでは、八田北町の公園のクスノキでツクツクボウシが鳴いているのを聞いた。長らく耳にしななかった声である。昨年までほとんどそうしていたように、わが家を出て商店街のある北方面を歩くより、途中に日陰がほとんどなくても、南へ行く道をとる方が季節の移ろいをより多く感じられてよい。

最高得票者が会長

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年11月3日 [1]

 うちの会社(という言葉が流行している)でも、ようやく後期生徒会役員が決定したとのことだ。「とのことだ」といわなければならないのは、先週の土曜日に投票があって、午後三時から開票されたはずであるが、その結果の全部を知らないからである。今度の選挙は、結果的にみて成功だったかも知れないが、変則的で、初めのうちは、はなはだ不活発だった。前期役員の任期は九月三十日をもって終ってしまっていたのだから、ちょうど一カ月のブランクがあったわけである。
 立候補届出期間が三回も延期され、ようやく立候補者が二十名ばかり現れたのである。二十名? 何のことはない。とうとうしびれを切らした選挙管理委員会が、各ホームから一名ずつ強制的に候補者を選出しなければならないという処置をとったからである。「生徒会役員候補者」ということにし、全校生徒の投票により、最高得票者が会長、次最高得票者が副会長、第三位の得票者が書記、第四位以下十名までが執行委員ということにした。会計については、前期会計が再度立候補届を行っており、特別の知識と才能がいるという理由で、選挙管理委員会では無競争で立候補者を正式会計として承認する旨発表した。二、三の反対があったが、了解したらしい。
 会計の立候補者というのは、いうまでもなく、ぼくである。誰か後任者があればさっさと辞してしまいたいと思っていたが、バトンをゆずるべき立候補者は現れず、ぼくとしても安心して渡せる誰をも見つけられなかった。仕事の内容からいっても、責任からいっても、このまま行けば、結局、自分でやるより他はないと思ったから、また、YM 君が熱心にぼくの推薦人を集めてまわってくれていたから、やむなく立候補することにしたのである。
[2]

 引用時の注

  1. 原文には日付けがなく、これは推定である。
  2. この日の日記は次回掲載分へ続く。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ポー 08/31/2005 00:00
 私の通っていた高校では、立候補するような生徒もいなくて、毎年先生や前年の役員などが声をかけて、会長以下セットでそろえ、そのセットを「信任」か「不信任」かという投票が行われていました。

Ted 08/31/2005 07:44
 私の最初の職場だった公立研究機関の労働組合(大阪府職労の1支部)の役員選挙も、セットにしてではありませんが、ほとんど「信任」か「不信任」かの投票でした。何度も支部長を務めた組合活動のベテランの I 君が、1票差で支部長不信任になるという劇的な事態もありました。私は組合活動の活発であることを願うものでしたが、I 君は私の共同研究者であり、彼が組合活動をしなければ、私たちの研究がはかどるということもあり、この不信任には複雑な気持を抱きました。

2005年8月29日月曜日

トンボとり(写真)/ 最多アクセス記事(05.07.31~08.27)


トンボとり

 写真右のおさな子は、タモを振り回してトンボをとろうとしていたが、うまくいかなくて、このタモがよくないといい始めた。左のベンチにいた祖父らしい人が、いまトンボは虫を捕まえるのに忙しいから、夕方になってトンボが疲れた頃ならとれるかも知れないよ、といってなだめていた(堺市・鈴の宮公園で、2005年8月20日)。

 追記:タモという言葉を捕虫網の意味で使うのは、私の郷里、石川県方面の方言的な用法かも知れない。

最多アクセス記事(05.07.31~08.27)

 先に7月10日から30日までの3週間の "Ted's Coffeehouse"[後日の注:2009年4月まで使っていて消滅した別のプロバイダーでのブログ。目下、そのブログの記事をパソコン上の控えから "Ted's Coffeehouse 2" のアーカイブへ復元中]最多アクセス記事について記した [1]。引き続き、その後の4週間の各週について調べてみた。結果は次の通り。()内は期間内の総アクセス数、[ ] 内は記事掲載の年月日。

7.31~8.06(4358)
アインシュタインの原爆に関することば (Einstein on Atomic Bombs) [05.05.22]: 56

8.07~8.13(4685)
ドレスデン国立美術館展 [05.05.05]: 80

8.14~20(4521)
靖国問題とは [05.05.21]: 133

8.21~27(4802)
『こころ』再読 [05.08.11]: 126


 1位は毎週入れ替わっているが、「靖国問題とは」や「ドレスデン国立美術館展」は大抵上位にある。四つの最多アクセス記事のうち三つまでが、5月に執筆したものであることが面白い。アクセスが結構あっても、読んで共感して貰っているか、何かの役に立っているか、は分からないところが歯がゆい。

 なお、前回は、最多アクセスのカテゴリについても週毎に記載したが、相変わらず「Water Color (水彩画)」が最上位を占める謎めいた現象が続いている。上記4週のこのカテゴリへのアクセス数は、112、103、109、143となっている。


  1. カメ(写真)/ アクセス解析 (Ted's Coffeehouse, 2005年8月5日).

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 08/29/2005 09:14
 ちなみに、Google で "Watercolor" を検索してみると、日本語のページでは2番目に、ウェブ全体では22番目に、この "Ted's Coffeehouse" がヒットしました。水彩画愛好家は世界中に結構多いのかもしれませんね。

Ted 08/29/2005 11:29
 わざわざお調べいただき、ありがとうございます。ところが、最近エコー!に追加された検索ワードによるアクセス解析では、たとえば8.21~8.27の1週間に「watercolor」という語の入った検索は「watercolor paintings ted」という、先に訪問してくれたことのあるらしい人の1件しか見当たりませんでした。奇妙でしょう?

ポー 08/29/2005 10:09
 トンボとりのおじいさんのなだめ方がいいですね。さすが年の功です。何が悪いのでもないというのはすばらしい考えです。追い回されたトンボはかわいそうでしょうが~

Ted 08/29/2005 11:32
Thanks for your kind comment. The old man seems to be of about the same age as me, but I cannot think of such good words for a grandchild.

ヨハン 08/29/2005 21:35
 捕虫網をタモと言うのは知りませんでした。関東では虫取り網とよぶのが一般的(?)でしたから。常々記事を拝見させていただき、Ted さんの考えや表現力には若きを凌ぐ素晴しいものを感じています。

Ted 08/29/2005 22:07:11
 お褒め、恐縮です。捕虫網の語を使おうかとも思ったのですが、郷里の石川県でタモといいならわしていましたので、これでも通じるかと思って使いました。いま『広辞苑』を見ると、「たも」は「たもあみ」の略とあり、後者の説明には「水中の魚類をすくいあげるのに用いる」とありますね。捕虫網をタモというのは方言的な使い方のようです。

2005年8月28日日曜日

ラッセル・アインシュタイン宣言50周年

 さる1月にラッセル・アインシュタイン宣言に触れたブログ [1] を書きながら、今年がその50周年にあたることに気づかなかった。一昨日、宗川吉汪(そうかわ・よしひろ)京都工芸繊維大名誉教授の「ラッセル・アインシュタイン宣言の精神と日本国憲法第9条」という論文 [2] を読んで、それを知った次第である。ラッセル・アインシュタイン宣言は1995年7月9日付けとなっている。1ヵ月と20日ばかり遅れたが、宗川論文をここに紹介することによって、私も同宣言を讚えたい。

 哲学者バートランド・ラッセルは物理学者アルバート・アインシュタインとともに、水爆戦争による人類の危機を訴えるこの宣言を起草し、湯川秀樹を含む世界の著名な科学者11名(うち10名がノーベル賞受賞者)の署名を添えて発表したのである。宗川名誉教授は英語の原文 [3; 本ブログ末尾の資料 (1, 2) にも一部をコピーした] と自らの和訳を論文末尾に添付している。

 宣言は8節から構成され、最後の第8節は決議となっている。その決議は、各国政府は戦争を放棄し、紛争の解決には平和的手段を見出すべきである、というもので、宗川論文は、「日本国憲法が危機に陥っている現在、これは日本人に重く響く。9条を守ることは、まさに、宣言の精神に則っている人間的かつ人類史的闘争である」と述べている。

 論文はさらに、宣言の指摘した世界規模の東西対立は、1991年のソ連の崩壊で表面上解消したが、それで人類の危機は去ったのではなく、現在、とくに2001年の9.11以来、危機はさらに深刻になったと見るべきだと指摘する。そして、アメリカが、9.11テロ誘発の原因も考えずに、むしろそれを利用し、アフガニスタンとイラクで多くの市民を虐殺する攻撃を行い、その鉾先を他の国ぐににも向けようとしているいま、もしもわれわれが憲法9条を放棄すれば、日本人の、「人」としての使命も放棄することになる、と結論づけている。[米国や日本を含む世界の軍事費の最近の傾向については、資料 (3) を参照されたい。]

 著名科学者たちが50年前に賛同した宣言の精神をかえりみて、憲法9条との一致を知るとき、来る衆議院議員選挙には、憲法を守る政治家をこそ選ばなければならないという思いを強くするのである。


  1. アインシュタインの社会的業績と坂東昌子教授 (Ted's Coffeehouse 2005年1月13日).
  2. 宗川吉汪, 日本の科学者 Vol. 40, p. 498 (2005).
  3. ラッセル・アインシュタイン宣言(The Russell-Einstein Manifesto, 1955)の原文は、例えば、The Russell-Einstein Manifesto, Web page of Pugwash Conferences にも掲載されている。

【資料】

(1) ラッセル・アインシュタイン宣言:決議部分の原文
"In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them."

(2) 同宣言の署名人
Max Born, Percy W. Bridgman, Albert Einstein, Leopold Infeld, Frederic Joliot-Curie, Herman J. Muller, Linus Pauling, Cecil F. Powell, Joseph Rotblat, Bertrand Russell, Hideki Yukawa.

(3) 世界の軍事費
 世界の軍事費の最近の傾向については、「軍事費の急増:貧困救済や教育に回したい」に、数値を挙げて述べられている。

 追記:新着記事「小泉・自公政治 このムダ遣い」の後半には、米国防総省「共同防衛にたいする同盟国の貢献度報告」2002年版による米国、日本、英国、ドイツ、フランスの1990年と2001年の軍事費がグラフで示されている。他国の軍事費が減少している中で、日本だけがこの間に増大を示し、英国などを抜いて、米国に次ぐ値になっているのは、異常な「軍拡」というべきであろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ルーシー 05/20/2006
 Ted さん、コメントありがとうございました。お願いがあるのですが~、英文ではなく和文にてコメントお願い致します、お手数ですがまたコメントお待ちしています。

Ted 05/20/2006
 私の使っているマックでルーシーさんのコメント欄に日本語を入力したところ、文字化けしましたので、英文にした次第です。書きましたのは次のようなことです:トラックバックありがとうございます。ルーシーさんのブログでは、アインシュタインへのノーベル賞授賞理由が、特殊相対性理論の発見のように取れますが、実際の授賞理由は、「理論物理学の諸研究とくに光電効果の法則の発見」でした。

ルーシー 05/21/2006 00:51
 Ted さん、お手数おかけしました。だいたいは英文で把握出来て訂正をしました。確かに誤解を受ける表現でしたね。しばらく気が付きませんでした(笑)。お恥ずかしい次第です! ありがとうございました。ではまた!

2005年8月27日土曜日

北信越高校野球決勝で菫台が惜敗


 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月3日(月)快晴

 "A Place in the Sun" の解釈は間違っていた。北国新聞夕刊の映画評に上流の社会を指すと書いてある。*

 これだけの歓声の中で、あれだけのプレーをするのは、さぞ愉快なことだろうと思いながら、菫台対桜丘の北信越高校野球大会決勝戦を見た。内野スタンドがすでに満員だったので、三塁ベンチの左端がちょうど一塁ベースの真向こうに見える位置の土手に腰を下ろした。7、8回に1点ずつ奪われて、試合は逆転し、そのまま2対1で敗れてしまった。[1]

 *[Tedの欄外注記]ぼくは社会問題に対する考察に慣れていなくて、何でも心理的な問題にしてしまいがちなので、こういう間違いをしたのだろう。

 引用時の注

  1. 上のイメージは、この日の日記の終りに「録音を聞いて記す」として書き込んであった、北信越高校野球決勝戦8回裏1死から試合終了までの攻防の、スコアブック式記録である。さる6月の小学校同級会で、このとき菫台チームの三塁手だった KW 君が、この試合で3失策をしたことを大いに残念がっていた。なるほど、この記録を見れば、8回裏1死から桜丘の3番打者能口が三塁ゴロエラーで出塁、投手の暴投で二進、6番打者林の左翼左への安打で生還し、これが決勝点となっている。[後日の注:KW 君が話していたのは、翌年夏の甲子園大会北陸予選で優勝した泉丘高校との対戦だったかもしれない。]

     優勝した桜丘高校は翌年春の選抜大会出場校に選ばれた。わが菫台高校は惜敗といっても、9回表に3~5番打者が相手の大根投手に完全に牛耳られている様子を見れば、負けても仕方がないともいえよう。わが校の4番打者・一塁手の上井(うわい)は私と同期である。彼は小学校時代には大根と好投手ぶりを競い合い、対戦成績は2勝2敗だったのだから、このときその大根を擁するチームと最後まで甲子園行きの切符を争って敗れたのは、さぞ悔しかったことだろう。(「非運のU君」参照)。

     なお、この1952年度の北信越高校野球(新潟、富山、石川、福井、長野の5県の代表による)では、準決勝に残った4校がすべて、この大会の地元石川県の代表である金沢市内の普通高校という稀な現象が生じた。大根や上井は、ともに生粋の金沢っ子ではなく、戦時中に神戸方面から疎開して来て、金沢に住み着いた児童だったと聞く。他にもそのような「野球先進地」から来た選手たちがいたことだろう。それに加え、戦災を免れた金沢で、戦後いち早く小学校の野球大会が復活したという事情もあって、いわば、戦争の事後効果として、この珍現象が起こったといえるかも知れない。

     桜丘の大根・能口のバッテリーは、小学校以来の名コンビで、翌春甲子園出場を果たしたものの、1回戦でいきなり大阪の当時の強豪、浪商(後の巨人の外野手・坂崎がいた)と対戦し、4対1か4対0で敗退したのだったと思う。——この日の私の日記は意外に短いが、振り返れば、いろいろな関連事項が思い出される。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/27/2005 21:50
 浪商-巨人の坂崎とは懐かしい名前ですネ。巨人の五番打者でしたか。

Ted 08/28/2005 07:20
 坂崎選手を覚えておられましたか。私の記憶している巨人のバッティングオーダーは、千葉、白石、青田、川上、…という古いもので、坂崎が五番打者だったかどうかは、覚えていません。しかし、巨人ファンでもない私が名前を覚えているところを見れば、クリーンナップトリオに入っていたのでしょう。

四方館 08/29/2005 20:50
 王、長島がクリーンアップに定着した頃の初期は坂崎が五番だったように記憶しますが…。

Ted 08/29/2005 21:54
 ああ、そうでしたか。「坂崎 外野手 巨人」でグーグル検索をしたところ、ここにプロ在籍中の成績等が掲載されていました。検索結果の2ページ目トップに私のこのブログ記事[注:最初に投稿した Echoo! サイトのもの]が出ていて、びっくりしました。

2005年8月26日金曜日

成功のためのアインシュタイン方程式 (Einstein's Equation for Success)

Read in English.

【概要】質量とエネルギーの等価関係を表すアインシュタインの方程式 E=mc2 はよく知られているが、アインシュタインは、人生において成功するための方程式も提唱している。

A = x + y + z

ここで、A は成功を意味する。xyz はそれぞれ何だろうか。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ゆっぴー☆ 09/02/2005 11:20
 ゆっぴーなら、A = 実力 + コネ + 運 としたいですね。沈黙することは、本人のためには良いことかもしれませんが世の中のため(後世の人々のため)には良いこととは言えませんよね? 今はネットの世界で、ガンガン言っていかないといけないと思います。時間的制約がありますけどね。(≧ヘ≦)最近、ちょっと忙しくて…。

Ted 09/02/2005 13:24
 私もどんどん発言することは重要だと思います。ただ、世の中には自分でじっくり考えてみることをしない人たちが多いので、アインシュタインはそういう人たちを戒めるために、沈黙の大切さを述べたのではないかと思います。

サンピエトロ大聖堂:遠景(写真)/『陽のあたる場所』


サンピエトロ大聖堂:遠景

 写真はヴァチカンのサンピエトロ大聖堂を、前の広場の中央に立つオベリスクと合わせて遠方から撮ったもの(2003年5月15日)。

 オベリスクはカリグラ帝が37年にエジプトから運ばせ、彼の競技場に立てたもので、16世紀末に44基の巻き上げ機、140頭の馬、800人の人夫の手でここに移された[『ワールドガイド街物語イタリア』(JTB, 2001) による]。




『陽のあたる場所』

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月2日()快晴

 新潟工高は毎回走者を出したが、わが百万ドル内野陣の攻守に阻まれ通しで、気の毒だった。しかし、外野があれだけお粗末では、負けるのが当然だ。吉田投手のコントロールが乱れなかったら、もっと大差で勝てる相手だった。[1]

 "A Place in the Sun" [2] とは、主人公の行動が、その人生において、責任をもってなされる部分を指しているはずである。そして、この六つのアカデミー賞を得たフィルムが写し出すものは、家族的あるいは社会的関係の網をくぐり抜け、彼の感情を引き寄せる綱にたぐられて行くジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)が、陽の当たらない場所とでもいうべきものを自分の中に作り上げてしまい、その処置に窮するところを頂点とした物語である。
 それにもかかわらず、題名が "A Place in the Sun" でぴったりであるのは、転覆する寸前のボートの中でこれからの生活について語るアリス(シェリー・ウィンタース)のジョージに対する愛の、そしてまた、牢獄へ面会に来るアンジェラ(エリザベス・テイラー)の彼に対する愛の性格が、彼を苦悩に陥らせた事件の暗さにちょうど正反対のものであり、そこから、死刑場へ引かれていくジョージ自身も何か陽光のようなものを感じ、かつ、それがどうあるべきであったかに気づいているように描かれているからであろう。

 けさ、伯母のところへご飯の鍋を取りに行ったときは、爽快さと晴朗さとを一緒に感じて、「すべてが、ぼくのために上々だ」と頭の中で繰り返していたのだったが、いまは、はなみずが出て仕方がない。早く寝なければならない。

 引用時の注

  1. 金沢兼六園球場で行われた北信越高校野球大会に出場したわが校を応援に行ったのである。
  2. 映画『陽のあたる場所』。ジョージ・スチーブンス監督、セオドア・ドライザー原作(1951年)。たとえば、A Place in the Sun (film), Wikipedia 参照。題名の意味の解釈については、翌日の日記で、この映画に対する新聞紙上の批評を見て間違っていたことに気づかされた旨を書いている。

2005年8月25日木曜日

「有権者に迫る総選挙の選択肢」:日本語中の休止

 四方館さんのブログ記事「しぐるるや石をきざんで仏となす」に次のところがあった。

<菅谷規矩雄の「詩的リズム――音数律に関するノート」からのメモ-2> 以下は前掲載につづく菅谷規矩雄の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約の後半部分である。…中略…
14、休止とはなにか <休止が群団化の標識>であることを、時枝は指摘したが、詩的リズムの構成にあっては、この休止が長短=二様のあらわれかたをすること ハマノ(-)マサゴト(-)ゴエモンガ(-) この十二の音節は、次の3・4・5音パターンとのあいだに、無音の拍=休止(-)を含むことを必須としている。…後略…

 ここに引用した四方館さんの要約中「14、休止とはなにか」に関連して、私は NHK アナウンサーのニュース朗読などにおいて、休止がしばしば間違った場所へ挿入されているように感じることを思い浮かべる。具体的な実例は、いま思い出さないが、8月24日付け朝日新聞夕刊のトップ記事にある文を例に使って、説明してみよう。

 「郵政民営化に賛成か反対か」。小泉首相が有権者に迫る総選挙の選択肢は二者択一だ。

 「小泉首相」以下を、次のような休止(-)の挿入で読んだとしよう。
 (1) 小泉首相が(-)有権者に迫る総選挙の(-)選択肢は二者択一だ。
これでは、リズムがよいようであっても、意味としては、小泉首相が迫るのは総選挙のように聞こえる。もっとも、小泉さんは参院での郵政民営化法案否決を受けて、衆院を解散し、有権者に総選挙を迫ったが、この文で「迫っている」といいたいのは、「二者択一」である。そこで、このニュアンスをはっきりさせるには、次のように休止をとるべきだろう。
 (2) 小泉首相が有権者に迫る(-)総選挙の選択肢は(-)二者択一だ。

 例 (1) 中の2番目の休止のような、修飾語と被修飾語を無残にぶっちぎる朗読が多いように思えてならない。そういう朗読を聞くたびに、私は頭の中で、自分に納得の行く朗読をしてみる。

 なお、この文は、次のように書き換えれば、休止をどこへ入れるかの問題は、大幅に緩和される。文を作るときの語順にも注意したいものだ。
 (3) 総選挙で小泉首相が有権者に迫る選択肢は二者択一だ。

 さて、朝日新聞の上記記事の見出しに「郵政だけが争点じゃない」とあるのは、正論であろう。しかし、小見出しには「年金」「外交」「イラク」とあるのみである。「憲法」「福祉」「教育」などに対する各党の態度もよく見定めて、投票したい。

四方館 08/26/2005 14:24
 短歌や俳句の句切れの問題と同じように、日本語の文章をどこで区切り休止-息つぎとするかは、意味の伝達において生命線であるのは当然のことですネ。(1) の読み方では、主語-述語関係が乱れてしまい、訳がわからなくなってしまいますネ。(2) ならば、前段に小さい主語-術語関係があり、その前段全体が、後段の本来の主部=総選挙の選択肢を修飾するという文の構造が明瞭になって、意味が通じることになりますネ。

Ted 08/26/2005 15:39
 私の記事中、(1) の下の文の末尾に「聞こえまる」というミスがあり、失礼しました。大阪弁のなり損ねのようで、いま訂正しながら、しばらく自分で笑いが止まりませんでした。
 英語は、長いセンテンスでも、関係代名詞の存在や、人称・数による動詞の変化などから、主語-術語関係の理解が比較的容易で、息つぎにそれほど頼る必要がないようです。分かりやすい朗読には、やはり正しい息つぎをしなければならないのでしょうけれども。

稲荷社(写真)/ 未開人のすること


稲荷社

 堺市・蜂田神社内の三ツ峰稲荷社。2005年8月20日写す。

未開人のすること

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月1日(土)降ったり晴れたり

 僧陰律如令、僧陰律如令…。馬鹿げている。未開人のすることである。しかし、墨をすって、祖父の望む通りに書いた。「幅二寸縦五寸の白紙に僧陰律如令と書きて清水にて呑むべし。」それがどんな科学的効果をもたらすのだ。「聾をなおす法」[1] だって! いまの祖父に対してすべきことは、どこかへ隠れてしまった祖父の科学的観念を引っ張り出して上げることと、いわれる通りにおまじないの文句を書いて上げることのどちらだろうと考えながら、安易な後者を選んだのだった。

 アセンブリーは同志社大学 O 総長と同大学 H 教授の講演。せっかくこれだけ重大で深遠な話をするのなら、もっと聞きよい調子で話して欲しいと思ってばかりいたので、要点が掴めなかった。H 教授は大学教育の使命について、O 総長は日本人の性格と民主社会ということについて述べておられたようだった。総長は高くて細い声で、「であります」というところに力を入れて、また、何でもないところに「ですね」という句を多く挿入しながら話された。

 出席を取って、近ぢか来沢される名士の紹介があっただけで終った物理の時間、その前の休み時間のコウモリ事件など、愉快なことがいろいろあった。

 MY 君の「国体感想記」は、何とも丁寧な調子で書かれている。「感激致しました」というような具合である。Jack の創作と同じく、「実力の差が有ります」と「有る」を漢字で書いているのも面白い。

 拍車をかけて活動しなければならないところへ、2日間の休みか! 母が粟津へ1泊旅行 [2]。

 引用時の注

  1. 祖父は大連にいたとき、ちょっとした事故にあい、耳が大分遠くなっていた。
  2. 職場の旅行だったか。

2005年8月24日水曜日

検索ワード解析

 エコログ(注:本記事を最初に掲載したブログ・サイト)のアクセス解析に「検索ワード」機能が追加になった。これを使って、早速私のブログ・サイトの「検索ワード解析」を試みた。

解析対象期間:2005.8.18~2005.8.24(期間内総アクセス数:3,601)
下記の表では第20項以下を省略

検索ワード アクセス数 アクセス率 (%)
1 靖国問題とは 33 3.82
2 エルンスト・フェルディナント・エーメ 12 1.39
3 原爆に関する本 9 1.04
4 クマゼミ 8 0.93
5 御影大橋 8 0.93
6 ケイトウ 7 0.81
7 三島由紀夫 写真 7 0.81
8 人間失格 6 0.70
9 三島由紀夫 6 0.70
10 広島(原爆に関すること) 6 0.70
11 福知山城 5 0.58
12 アインシュタイン 原爆 5 0.58
13 ベルリンの至宝展 5 0.58
14 水彩画 5 0.58
15 改憲は必要か 5 0.58
16 アブラゼミ 5 0.58
17 夏目漱石 こころ 5 0.58
18 クマゼミ アブラゼミ 5 0.58
19 三島由紀夫 自殺 5 0.58
20 軍人勅語 5 0.58

 3、10、12を原爆関係としてまとめれば、20件となって、「靖国問題とは」に次いで、2位に躍り出る。8月だからだろう。三島由紀夫に関心をもつ人も多いようである。三島由紀夫関連の検索、7、9、19を合わせれば18件、また、4、16、18をセミ関係としてまとめれば、これも18件となって3位を分け合う。セミについては、夏休みの宿題の参考にしたいという検索だろうか。多少なりとも参考になれば、嬉しいのだが。

 2のエルンスト・フェルディナント・エーメについては、「ドレスデン国立美術館展」という記事の中で、彼の「サレルノ湾の月夜」という絵を、私の気に入ったものの一つとして書き並べてあるだけである。

 上記の表は、私が興味をもって書いたことと、インターネット読者が読みたいと思ったこととの重なり具合を示す一種の地図というべきものであろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

RIN 08/25/2005 00:19
 いつの間にかこのような機能があったんですね。私の場合はこの一週間の第一位は「えのすぱ」でした。「江ノ島アイランドスパ」の愛称ですが、世間が何を調べたがっているかが何となく分かって面白いですね。

Ted 08/25/2005 08:12
 これはすでに書いた記事にヒットした数のリストですから、新たに書こうとする話題がどれくらい読まれるだろうかということは、これをもとに極めておおまかに類推するしかありません。それでも、そういう類推が可能になったことは、ありがたいです。

元従軍看護婦さんの話 (Former Army Nurse's Story)


【Read in English.】

 さる8月21日、サンスクエア堺において、「堺・九条を守りいかす会(仮称)」を作る準備のための会が開かれ、私も参加した。ほかに10数名の参加者があり、各人の日本国憲法九条に関する思いや、私たちの今後の活動についての意見を話し合った。

 参加者の一人の M さんは、元従軍看護婦で、第2次世界大戦の末期に南京で勤務していたという。彼女は南京病院で細菌培養の仕事をしたことや、その他の辛い経験について語った。細菌培養は、何か基礎的な実験のためだろうと思っていたが、もっと多く培養するように要求された。それでも、自分の技術を向上させるために必要なのだろうと考え、その仕事に懸命に励んだ。しかし、さらに沢山の培養をするように命令された。彼女はその後、自分が培養した細菌は細菌兵器のためだったのだろうと思い至り、なんと恐ろしい仕事に従事させられたことかと振り返っている。

 ある休日、M さんと友人の看護婦たちは兵隊たちの長い行列を見た。何かの配給を貰うためだろうと思って、彼女たちも列に加わった。一人の兵隊が、「行きなさい。君たちがここにいたら笑われるよ。」といった。彼女たちは「配給の行列じゃないのですか」尋ねた。兵隊は「豆の配給だ」といった。それは、実は従軍慰安婦を求める行列だったのである。

 敗戦後、日本兵たちは動物になり、看護婦たちは彼らを恐がった。捕虜になるよりはと、何人もの看護婦が自殺した。1946年1月、M さんは、他の看護婦や兵隊たちと一緒に日本へ帰るため、南京から上海へ貨物列車で運ばれた。一同は一杯に詰め込まれた車両の中に立っていたが、隣の兵隊が彼女の方へ寄りかかってきた。彼女は「重いから押して来んといて」といって押し返した。よく見るとその兵隊が死んでいることに気づいた。間もなく、彼女も高熱に襲われた。マラリアを発症したのだ。しかし、冷たい死体に触れることによって、高熱に耐えることができた。――死人が彼女を助けたのだ。――

 以上は、多くの人びとが持つ戦争にまつわる悲しい話のごく一部に過ぎない。あなたは、日本が集団自衛の名のもとに再び戦争をすることを許してよいと思いますか。



 写真は8月20日、堺市の鈴の宮公園で。7月28日にこの公園でみかけたのはクマゼミばかりで、8月5日には約1:2の割合でアブラゼミが加わっていたが、このとき目にしたセミは、数も少なくなり、ほとんどがアブラゼミだった。公園の池を隔てた蜂田神社の森では、クマゼミの声が以前より静かに聞こえてはいたが。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/24/2005 11:50
 こうした体験としての事実の前に立たされたとき、言葉を失ったままひたすら打擲されるしかないものです。どうしてもネガティブにならざるをえない、みずからの現実の体験としての事実をもって、憲法9条問題へと駆り立てていかねばならない精神のうちに潜む不条理や非情さに病まずにいられない心の闇というか、無辺にひろがる寂寥や絶望が痛烈にひびきます。9条を守るべき責めを負うのは、私なども含めた戦争を知らない子どもたちの世代以降のすべての人たちであるべきだと、私は思うのです。

Ted 08/24/2005 13:44
 戦争の体験者が、自らへの不快感を忍んで、なまなましい不条理の絶望感を伝えて下さることも重要かと思います。臨場感のない説明では、戦争の本当の恐ろしさは、伝わりにくいのではないでしょうか。

Y 08/24/2005 19:21
 Ted さんは、これまででもずっと、九条を守りいかす会、の前身などの、いわば積極的な活動をなさってきたことと思いますが、私はこの問題について、まだまだ活動者にはなれないのです。ずっと先の課題になるかもしれない、と思っています。
 人間は必ず「善いと思われること」ができる性向を実はもっていません。人間は状況の厳しさのなかで、罪悪に手を染め、そのようなことを生涯したくなかった他の人にも、同じことをさせる結果になることもあります。もちろん戦争がその最たる特異な現実ですが、しかし、いつの時代でも、現代でも私たちの社会には、生命と尊厳をもつ人に対して不条理さをあたえる無神経な言動をする人がいないではないですよね。子どもを自殺にさえ追いやる強烈ないじめの世界でも。
 従軍慰安婦を求める人間に根源的な欲求と罪悪との同居だとか、ひとつの命の尊厳と多くの命の尊厳とが、おなじ前提のうえに実はあるべきだということだとか、狭義の政治では考え尽くせない重要な問題がここに凝縮されている。そういった視野で、私は考えています。

Y 08/24/2005 19:28
 ええ、四方館さんの考えられるとおりだと思います。戦争のオリジナルの現実に触れえない子どもたちの世代が、ではどんな精神で九条を継承し続けるのか、この世代の自分たちは戦争責任から免れられるわけではない、といった、「守るべき責め」の表現でまさしく的確であるような、自己に「責め」を見出す意識が大事だと思います。

Ted 08/24/2005 19:32
 Y さんが、「狭義の政治では考え尽くせない重要な問題」について考えられるとき、それは、平和のための運動をすることに劣らない大切なことをしておられることになると思います。

ヨハン 08/25/2005 02:39
 民間人ですら「祖国のため」という言葉の呪縛から逃れられず、善悪の区別する事すら認められなかった時代、悲劇を2度と繰り返さないためにも、指導者にこそ九条の本質をきちんと理解させる必要があるのかも知れません。

Ted 08/25/2005 08:28
 そうですね、改憲を考える人たちは、9条のよさが分かっていないのです。
 この話をして下さった元従軍看護婦さんは、1924年生まれ、和歌山県の田辺高女を出て、和歌山日赤を1943年に卒業(19歳)。それと同時に陸軍省から「召集令状」(赤紙)が来て、「女性の出征は珍しく名誉だ」と村をあげて日の丸の小旗で見送られ、南京第一陸軍病院の伝染病棟勤務となったのでした。

2005年8月23日火曜日

セミの抜け殻(写真)/ M・Y 君からの感想(2005年7月分)


セミの抜け殻

 写真は、去り行く夏を憂い気に木の葉にとりついているセミの抜け殻(堺市・鈴の宮公園で、2005年8月20日)。

M.Y.君からの感想(2005年7月分)

 さる8月18日付けで、M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 7月分への感想文を貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。




1. 随筆

(1) 「ゴッホ展」

 「糸杉と星の見える道」の模写は、よく感じがでていますね。この絵では、二人の農夫と後ろの二人乗りの馬車が夜のくつろぎを感じさせます。私は、「黄色い家」をモームの『月と6ペンス』にも書かれているゴーギャンとの協同生活や、それに破綻があったことなどを想いながら眺め、よい絵だと思いました。

(2) 「高校時代の写真」「科学・技術者を目指す女子高校生のための夏の学校」

 2名の女生徒と日記に登場する人びとを興味深く拝見しました。女子高校生のための夏の学校の募集は全くタイミングよく届いたものです。

(3) 「科学における25の大きな疑問」

 サイエンス誌125周年特集の25の大きな疑問の中には、タイトルを見ただけでは何のことか分からないものもありますが、これらが4半世紀に直面する大きな疑問であるということは大いに参考になります。「5. 物理学の法則は統一されるか」は、先月の元上司の物理的世界観云々と関連しているようです。物理学はどこまで進展するでしょうか。

(4) 「私の持っている最も古い写真」

 これだけ鮮明によく転写できたことに驚きました。写真に写った人物・服装にも興味を惹かれます。1900年初頭には白黒写真技術の基本は完成していたのですね。1990年代後半に急速に普及したデジタル・カメラは写真技術のブレークスルー、さらなる発展はどのようなものでしょうか。

(5) 「第55回パグウォシュ会議(広島)へのメッセージに賛同」

 パグウォシュ会議についての新聞報道は、例えば7月23日の朝日新聞夕刊で「本日から広島国際会議場で開催され、科学者集団が5日間、知恵を出し合う」など、当日のハイライトと関連事項の簡単な報道のみだったので、本記事に「憲法九条がラッセル・アインシュタイン宣言とともに、核兵器廃絶後の、人類の未来への布石として先見的、人類史的意義をもつことを確信する」という関西平和研究グループ有志のメッセージが引用されていることは意義深いと思います。九条がかつてない存続の危機に瀕しているなか、共産党と社民党が来る衆議院選挙でも九条を守る態度を示しているのは救いでありましょう。

(6) 「セミとり」「日本最古の噴水」

 セミとりにまつわる思い出とウォーキング中に撮ったセミの写真、9歳で亡くなられた兄上を偲び近年兼六園を訪れるたびに見に行く日本最古の噴水の話は、筆者の現在と関連させて少年時代の思い出を語る爽やかな読み物です。噴水の写真もよく、セミの3連写真も面白いです。

(7) 「死後に親しむ」

 作家・水村美苗が寅さん俳優・渥見清を彼の生前になぜ知らなかったかは別にしても、小林信彦の『おかしな男』を読んで関心を寄せ、『男はつらいよ』の初編ビデオを見て「歓喜」が体中にあふれた、と知り、その経緯を興味深く思いました。

 私は水村美苗の『本格小説』についての貴君の書評にひかれてこの本を読み、彼女のすばらしい創作構想力に圧倒され、この深みのある和製『嵐が丘』を読みふけりました。続いて『続明暗』を読み、大いに感銘をうけるとともに、漱石の未完の『明暗』をいかに読み解くかについ教えられました。貴君の名書評に感謝します。

2. 写真

 貴家の庭の花は一度に三つ咲いたハイビスカスサフランモドキキキョウオクラモミジアオイと種類多く、また、40年前に伯母様の家から貰われた思い出のアガパンサスの花もあるそうで、生活に潤いを添えていることでしょう。

 イタリアの美しい風景、歴史的建造物、街並みは構図がよく素敵です。宿泊されたホテルの部屋の窓から撮ったローマの街角の写真に果物売り屋台のトラックらしい車の前を二人乗りの黄色の超小型車(ベンツ社の SMART)が走っているのはユーモラスです。また、ナポリ湾越しに見たヴェスヴィオ山は天候に恵まれてよいチャンスを捉えた巧みな写真です。

3. 交換日記

(1) 先生方のお話

 Ted の9月20日の日記に、金城高校の加藤校長の講演について記されており、音楽のメロディー・リズム・ハーモニーが会話においても必要な発声上の注意点であるという話があったことが紹介されています。他方、Sam の9月23日の日記には、友人と二人で訪問した先生宅で、兄弟がいないということについての話を聴き、人格の形成と人生観の確立のための真の学問をした、と感銘したことが簡潔に面白く書かれています。どちらもよい話だと思います。

(2) 事実は小説よりも奇(9月23日の Ted の日記

 Sam が「海水浴」)で想いを述べた Green の父君が Y・T 氏なら、彼女が「中学生時代にぼくに対して最近の君に与えたよりも少ない好感を与えた女生徒だったことを思い出す」とのこと。仮定が正しければ、Green にまつわる話は小説よりも奇といえるでしょう。

(3) 「高校新聞の私的採点」

 コンクール参加の県下各高校の新聞15紙(各校2~4号)の大量を読んで私的採点をされたこと、しかも1、2位を的中させたのはさすが編集長だと感心しました。「終わり。まずい。」に「非能率的に、目を広い範囲に向けないで活動したからだ」と編集長自身の反省がありますが、『菫台時報』が入賞を逸したのはさぞ残念だったことと思います。

 また、10月10日の日記第2節に過去の編集室の様子を記し、「こんなのが2月ころの編集室だったが、いまはどうだろう。しばらくするとどうなるだろう」との想いをいたす編集長の苦労を察します。

 私的採点では中程度以下だった「羽松ヶ丘」(県立羽咋高校の新聞)が佳作になるなど、金沢市以外の文化的辺境地にある高校の努力をたたえる意味もあると引用時の注にあります。羽咋市については、近くに北陸電力の志賀原子力発電所があり、そこへ仕事ででかけたことがありました。金沢から七尾線で羽咋まで行き、ここからタクシーで発電所まで行きました。近くに広びろとした砂浜の美しい千里浜海岸があり、紙名の「羽松ヶ丘」はその光景を思い出させます。

(4) 菫台高校校歌(前記10月10日の日記第2節の後)

 菫台高校校歌と紫錦台中学校歌でこれだけ多くの単語が共通に用いられているのは、なにか因果関係があるかと思われます。両校の名前の響きも似ています。私の高等学校は、旧制中学と女学校が一つになった県立高校で、男女半々の共学校でした。校歌は新制度で生まれ変わり、そのことを賛えるかのような内容の美しいメロディーの歌で、新鮮さを感じたものです。歌詞は、はっきりとは憶えていませんが、下記のようなものでした。

    明ゆく空に 打吹の輝く峰を仰ぎつゝ
    若き理想の学び舎に 伸びて育ちて美しく
    光を受けて競い咲く 花なり若き友我ら

 1年生は全員が美しい環境にある旧女学校のこじんまりした清潔な校舎で学び、2、3年生は旧制中学の広い野球グランドのある古びた校舎で学ぶことになっていましたが、2年生の終わりに2校舎分離の不便さなどの見直しがあり、3年生から二つの校舎を拠点にした東西二つの高校に分離しました。理想の学び舎も今は昔のことです。

2005年8月22日月曜日

『通販生活』特別付録:憲法九条改変の賛否を問う企画


 妻が購読している『通販生活』の2005年秋号に、上のイメージのような冊子が付いてきた。特別付録である。大きな文字の「憲法を変えて戦争へ行こう」だけを読むと、「これはなんだ?!」と思うが、小さな文字の「という世の中にしないための18人の発言」まで読んで、私は安心した。

 これは、岩波ブックレット No. 657。これを付録として添付することを、通信販売のカタログハウス社が、憲法九条改変の賛否両論を読者から求める企画として実施したものである。挿入されている挨拶文の中には、次の一文が太字で記されている。

 私たちは「九条を守る」よりもっと大切なことは、九条は変えないほうがいい、いや、変えたほうがいいよと、お互いにのびのびと持論を表明し合える「言論の自由を守る」ことだと考えています。

 時宜を得たよい企画だと思う。このブックレットで発言しているのは、広い分野にわたる次の人びとである。[活躍分野が複数の人たちについては、()内の説明を代表的なもののみにとどめた。]

 中村哲(医師)/美輪明宏(歌手)/香山リカ(精神科医)/吉永小百合(俳優)/姜尚中(東大大学院教授)/松本侑子(作家)/井筒和幸(映画監督)/辛酸なめ子(漫画家)/ピーコ(衣装デザイナー)/猿谷要(東京女子大名誉教授)/井上ひさし(作家)/半藤一利(作家)/森永卓郎(独協大特任教授)/渡辺えり子(劇作家・演出家)/黒柳徹子(俳優)/品川正治(経済同友会終身幹事)

 このブックレットには、木村裕一(詩)・田島征三(絵)による「子どもたちのだれかが」と題する2ページもある。

世界の国々を、子どもたちにたとえてみた。/…/4百万年の歴史を経た 人類の知恵も/ふと気がつけば/愚かな子どもたちのケンカに、実によく似ている。

 「愚かな子どもたちのケンカ」に似た「人類の知恵」とは、戦争のこと。まったく、その通りではないか。憲法とは理想をこそ追求すべきもの。それを、戦争を可能にする形に変えるならば、まことに愚かな退行でしかない。

今、この子どもたちのだれかが/「もうやめようよ」と 発言しなければ、/この先どういう未来が 待っているのだろうか。

2005年8月21日日曜日

団地の庭園:その2(写真)/ 内向きの掲示


団地の庭園:その2

 写真1枚目は、先日撮影した団地の庭園を前方へ出はずれたところから、逆向きに写したもの。2枚目は、この写真に、また Adobe Photoshop による加工を試みたもの。今回の加工条件は、メニュー Filter > Brush strokes > Dark strokes で、 Balance 10, Black intensity 0, White intensity 3 に設定。(後日の追記:加工したイメージは、見ていると目が疲れる気がするが、斜めの筆致風のところと、眼鏡の乱視の度が合わなくなっていることとの相乗作用だろうか。ところで、この斜め筆致は左利きのものであり、右利きの人間はそのまま真似が出来ない。)

内向きの掲示

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月30日(木)晴れ

 与えられたすべてのものを、もっと十分に利用したい。

1952年10月31日(金)晴れのち曇り

 門あるいは玄関に黒板を立て掛け、それに文字が書いてあるというのは普通に見かける光景だ。先日も、崎浦小へ結核健康診断に行ったときに、「結核健康診断の方は、校舎右の運動場から直接講堂へお入り下さい」と、黒板に書いてあった。しかし、黒板が内側へ向いているのは、珍現象の一つだ。下校する生徒の足を一旦踏みとどまらせ、そして、その生徒が生徒会議員であった場合には、19番教室へ送り返すという役割を担った黒板が、そういう状態で立っていたのである。後期に入って、生徒議会は猛烈に活発になってきたようだ。

 22ホームの SM 議員リコール問題、これに関する NKY 企画委員長の22ホーム一同宛の書簡など、劇的事件もみられる。「この時勢に鑑みて、われわれ新聞部員は…」と叫んで奮い立つような情熱がぼく自身に欲しい。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/21/2005 22:29
 生徒会活動でリコール事件など起こるなんてなかなかの騒動ですね。私の高1の時は、ちょうど60年安保でしたから、6.15や6.19に向け高校生の政治的活動参加について、何度も全校集会が開かれ、熱い議論が闘わされていました。

Ted 08/22/2005 07:56
 この少し後だったかと思いますが、ある1年生議員が生徒会則にない「生徒議会解散(再選挙)」の発議をして、それが可決されるという事件もありました。その1年生議員は、後に NHK の研究所に所属し、いくつかの著書(私には反動的と思われる)も出した角間隆君でした。60年は私が就職した年。職場の周囲はほとんど田圃で、実験棟などの建設がまだ進行中。夢のある別世界へ来た感を抱いたものです。

2005年8月20日土曜日

P・ガリソンがファインマンとアインシュタインを比較 (Comparison between Feynman and Einstein by Peter Galison)


【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】ノーベル賞物理学者 R・ファインマンの書簡集が発行された。P・ガリソンは Nature 誌にその書評を書き、その中でファインマンと A・アインシュタインを比較し、いくつかの相違点を挙げながらも、2人とも自らの独自性を保ち続けた点では同じだとしている。ガリソンが引用しているファインマンの最初の妻・アーリンへの最後の手紙は、彼女の死後に書かれたもので、平明な中にファインマンの悲しみを強く訴えるものとなっている。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

2005年8月19日金曜日

国際紙が日本に警告 (An International Newspaper's Warning to Japan)

【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】8月15日付けインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は、日本の大衆の意見は近年右傾化していると指摘し、また、第2次世界大戦についての日本と他のアジア諸国との意見の相違は、日本をそれらの国ぐにから孤立させる恐れがあると警告する記事を掲載した。国際紙のこのような客観的な言葉には、日本の政治家だけでなく、国民の皆が耳を傾けるべきだろう。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/19/2005 10:35
 グローバリズムの世界となってしまって、その反作用というか、ナショナリズムが強まり表面化してきていると思われます。日本の社会状況では80年代にすでにソフトな(?)ファシズムが蔓延しつつあると警鐘する声がありましたが、戦後三世代に至りつつある現在、右傾化の潮流はさらに強まっていくのでしょう。

Ted 08/19/2005 16:48
 グローバリズムの反作用としてのナショナリズムの台頭ということもあるかも知れませんが、私には、アメリカに頼り過ぎる政府の政策と、これを容認する国民の姿勢が右傾化を進めているように思われます。

四方館 08/21/2005 18:41
 小泉首相は見栄も外聞もなく露骨にアメリカ追随をしますね。中曽根時代のロン・ヤス同衾ぶりに比べても、小泉とブッシュのそれは矜持の乏しいものに感じますが、その小泉流の空疎なスローガンに踊らされる国民性は、仰るように右傾化を加速したと思います。

Ted 08/21/2005 22:03
 私は微力ながら、右傾化を押しとどめるための発言をして行きたいと思っています。

Y 08/24/2005 10:51
 私もそのように思います。今、日本で保存され公開されている歴史的文化財の一般の観光客・来訪者への案内・紹介の仕方も、歴史の中の失敗や罪の如何を、今も繰りかえし問い直すだけの判断力を、たとえば私のように歴史教養のうすい市民に提供してくれるには足りないように思います。では、文化財の美しさを味わったらよいのかといえば、文化財のつくられた意味を知らずに美しい、立派だと感じるのは表層的なように思えますし。
 私なりの視点から言いますと、現代でもいつでも、教科書、小説、ゲーム、なんであれ文化を新しく作り出す際には、人や社会に対する理解の倫理性、また、大衆に広めるものである限り、そのかくれた政治性さえ自覚されるべきだと思います。アジアの人たちも、日本文化をみるときに、そういった面のどこかに敏感に反応したくなるときがあって当然でしょう。

Ted 08/24/2005 13:27
 私のブログに先日大阪の四天王寺の写真を掲載しました。その際、その建物の歴史が分かるかと思って、四天王寺のウエブサイトを見ましたが、建物はいつ建てられたのか、現在までの間に何度か再建されているのかということが、さっぱり分からないサイトだったので、リンクすることを止めました。
 歴史をきちんと伝えないことで最たるものは靖国神社です。侵略戦争を美化さえしているのですから。

2005年8月18日木曜日

夏雲のある風景(写真)/ Ivory tower のみを求める


夏雲のある風景

 昨朝は一昨夜の雨のため少し涼しかったが、日が高くなり始めると、すぐに蒸し暑くなった。写真は、午前のウォーキングの途中で、きょうも夕立があるだろうか、と空を見上げて撮った一枚である。(午後2時過ぎに、激しい夕立が来た。)正面の建物は泉北下水処理場。手前の階段状の部分には、下水処理で出た汚泥をリサイクルして作ったレンガが利用されている。

Ivory tower のみを求める

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月27日(月)雨

 人間とはいろいろなことを思わなければならない動物だ。「なで肩」という言葉をここへ書くことを躊躇する。「オフィリアに扮するに相応しいような」というのも…。「究理的な態度を何か深遠なものにして、こなしている」というのも…。それらのものを、ぼくはほとんど見くびっている。しかも、ほとんど尊敬している。――尊敬という言葉は不適当で、また、それを使わなければならないのは残念なことだ。しかし、それらを考えるときの愚かしさは、この言葉を使わなければならないという罰を負わされてよいほどのものだ。――Ivory tower のみを理性は求める。

1952年10月28日(火)雨

 臨時生徒議会を傍聴。TKG 君らが提案の応援団設置案可決。

1952年10月29日(水)曇り一時雨

 そんなことで、ちっぽけな名誉を得ようとして震えていたとは、浅薄な考えだった。[1]

 引用時の注

  1. 何のことだったか、記憶にない。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/18/2005 19:47
 密かな恋というのは、躊躇や相手を思うときのみくびりに近い心とともに、自分にとっての尊敬がどうしようもなく混じる…。そういう在り方は、あるでしょうね。またそれらの躊躇なく、恋の相手を絶賛してやまない場合も、あると思います。私などは一貫して(?)後者のほうなんですけれどね。

Ted 08/18/2005 20:47
 さすがは Y さん、異性に対するみくびりや尊敬の混在を理解していただけましたか。

2005年8月17日水曜日

天王寺界隈(写真)/ 時どき急に明るくなる日光が…


天王寺界隈

 写真は、さる14日午後、四天王寺からの帰路、近鉄ビル2階テラスから撮影した天王寺界隈の風景。盆休みで大阪市内は車が少ないかと思ったが、そうでもない様子だった。

時どき急に明るくなる日光が…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月26日()晴れ

 東の空には、沢山の藍黒色の雲が浮遊して、その大部分を覆っている。街路を歩いていると、手の甲を乾燥させる冷たい空気が、絶え間なく木々の梢や電線やその他のあらゆる揺れたりなびいたり吹き飛ばされたりすることの可能なものを動かしているのが、いかにも寒ざむとした感じを与えて目に映る。しかし、家で読書をしていると、時どき急に明るくなる日光が、自分の周囲以外のどこかで非常に楽しい幸福な場所を作り出しているのではないかという僻んだ幻想を起こさせる。――そんなきょうの午後を、君はどこへ行って過ごしたのかね。* [1]

 母という字をずっとママンと読みながら、ようやく第6巻まで読んだ [2]。「二項式の平方は、その各項の平方と両項の相乗の二倍から成り立つといふことを、始めて計算に依って知った時には、その運算が正しかったにも拘らず、図形を作ってみるまでは全く信ずることが出来なかった」ということが書いてある。シャルメットで知識の獲得に毎日を捧げていたルソオの24歳のときのことだ。

(Sam の欄外注記)* 親友の YM 君のところへ行っていた。彼の家は能美郡山上村字岩本。白山さんに詣で、天狗壁を巡っていた。秋の風物を満喫した。この辺はすばらしい名勝だ。

 引用時の注

  1. Sam の家を訪れたが不在だったのだろう。
  2. ルソオ著・石川戯庵訳『懺悔録』 (岩波文庫、第1刷発行1930、第20刷発行1952) を読んでいたのである。現在の岩波文庫版は、ルソー著・桑原武夫訳『告白』となっている。

2005年8月16日火曜日

四天王寺(写真)/ 揺らいでいる


四天王寺

 さる14日、盆だからではなく、曇っていて、五重の塔の写真が綺麗に撮れそうだったので、大阪の四天王寺を訪れた。地下鉄の夕陽ケ丘で降りたとき、小雨が降り出したが、4枚目の写真を撮る頃には止んだ。これは2枚目。

揺らいでいる

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月24日(金)晴れ

 昨日は1字も読むことなく、また1字も書かなかったが、Jack と SN 君の顔だけは見た。昼食後の休憩時間に見舞いに来てくれたのだ。全身に汗し、身体のやり場に困り、目を閉じ、時の移りを遅く感じ、無益な考察を、それも考察とはいえないほど不完全に行った1日だった。

1952年10月25日(土)曇り一時雨

 アセンブリーの時間は、前期生徒会の経過報告と新役員の挨拶と校歌の練習。会長と副会長の挨拶は至極短いもの。2年生からの分科委員長は財政の SM 君と情報の Jack だけ。新進議員の Jack が委員長に起用されたとは愉快だ。

 不安定になって来た。揺らいでいる。

 何か新規な運営方法はないものだろうか。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

RIN 08/16/2005 23:42
 「揺らいでいる」というタイトルが今日11:46の地震を予言しているようです。記事を投稿されてから約4時間後に地震が発生したことになりますでしょうか。

Ted 08/17/2005 07:38
 ご指摘を受けるまで、自分では気づきませんでした。タイトルは、高校生時代の日記中の心理状態を表現した言葉を抜き出したものでしたので。偶然の一致ですね。

2005年8月15日月曜日

サン・ピエトロ大聖堂:外観(写真)/ 全校一斉の国語テスト


サン・ピエトロ大聖堂:外観

 写真はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂。カトリック教会の総本山。315年から120年の歳月を費やして完成し、規模、装飾ともにイタリア随一の宗教建築を誇る。(2003年5月15日撮影。説明は旅行者に配付された JTB の案内書による。)

全校一斉の国語テスト

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月22日(水)雨

 HRH に全校一斉同一問題での国語のテストがある。問題は半紙1枚半あって、初めの2題が文と詩を読んで後の設問に答えるもので、その他は、漢字に仮名を振って意味を書くもの、漢字の書き取り、品詞・活用形の見分け、仮名遣いの訂正だった。「…でも」の品詞には助詞か副詞かと迷い、英語で even は副詞だということを考えて副詞にしたが、とんでもない誤りだった。英語的に考えれば、連体詞「あらゆる」が形容詞になったりもする。
 芥川竜之介の文の題を選ぶ最初の問題では、「山間の町で」に○をつけた。昼食時の編集室では、SN 君とTKS 君の「微笑」派と、Jackと HN 君の「ある日の追憶」派との激論が見られたが、「山間の町で」を支持するものは他にいなかった。「微笑」は、主題の表現を引き立てる役割こそしているが、題には出来ないと思う。「ある日の追憶」は、最後の文の中に、いまでもその少女の容姿が頭によみがえって来ることがある、ということが書かれているところから、一応考えられる題ではあるが、全体を「追憶」としてしまうには文の調子が懐旧的でなさ過ぎるような気がした。しかし、残念なことに、確固とした自信はない。――Sam は「背水の陣」の由来と意味を知っているかい。――

 KW 君と比べて、より多くのユーモアと、より少しの豪傑ぶりを持っている NS 君は、きょうから生徒会室に泰然とおさまっている。放課後、『菫台時報』次号の「論説」を書いて貰うための原稿用紙を渡して来た。原稿用紙印刷代を印刷屋へ払って貰うために、財政委員長も早く決まってくれないと困る。SM 君がなりそうだという情報がある。そして、Jack が情報委員長に?

2005年8月14日日曜日

サン・ピエトロ大聖堂:その2(写真)/ スポーツ色の生徒議会


サン・ピエトロ大聖堂:その2

 写真はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂内部。7月20日に掲載の写真よりも入口近くから撮ったものである(2003年5月15日)。

スポーツ色の生徒議会

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月20日(月)晴れ

 第1回臨時生徒議会は流会になった。SM 君は会長の席を占めようと懸命に運動していた。生徒会活動に対する熱心さで彼の右に出るものはいないから、彼は楽らくと当選するかも知れない。しかし、3年生は運動クラブに属する大量の議員を送っているから、彼らが、何かこれに対抗する動きをすることも考えられる。

1952年10月21日(火)晴れ

 昼食時に臨時議会。NS 君が会長になる。副会長は野球部で右翼手だった3年生の SG 君。完全にスポーツ色の生徒議会だ。

 3回にわたった英文法の試験が終った。英作の問題では、教科書にあった英文 "He ruined his health." を和文にして問題としたのが1題あった。Ruin という動詞を使ってあったことに気づかなくて、ちょっと困ったが、G & C にあった to lose one's health を思い出して使った。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/15/2005 12:21
 システィナ礼拝堂の壁画の修復が成ったのは94年でしたか。私が行ったのは2000年でしたが、明るい色あざやかさにかえって違和をおぼえるほどでした。

Ted 08/15/2005 16:14
 ヴァチカン美術館、システィナ礼拝堂も半ば駆け足で観なければならなかったのは、グループ旅行の残念なところです。

2005年8月13日土曜日

ケイトウ(写真)/ なまじ訪問し合う間柄ゆえ…


ケイトウ

 甲子園では球児らの熱闘が続くが、近隣の公園にはケイトウの花が咲き、秋の気配が忍び寄る(写真は堺市・笠池公園で、2005年8月9日)。

なまじ訪問し合う間柄ゆえ…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月19日()晴れ

 26ホームでは選挙管理委員の NS 君をリコールでやめさせ、生徒会議員にしてしまったということを Jack から聞いた。2年生から会長が出るとすれば、授業中に先生の質問に答えるときでも「これはー、ですね」などと、妙にもったいぶったいい方をする SM 君よりも、明朗で意気の強い NS 君の方が望ましい。

 3校の野球リーグ戦は、見ていて少しも熱の入らないものだった。対二水戦は4回辺りから見たが、菫台は毎回走者を出しながら、得点できないで破れた。吉田投手は加賀谷投手をリリーフして登板していた頃より、ずっと安定感が出て来ている。けれども、甲子園のマウンドを踏む投手として期待するには、まだまだ球威が足りない。対桜丘戦は1回の表裏がヤマだった。そして得点も、両校ともその回にのみしか上げ得なかった。何回だったかに、上井君を二塁において、捕手の中井君が左前安打したが、そのとき三塁までしか走れなかった上井君が還っていれば面白かっただろうと、惜しまれる。

 また HZ 君に会った。(彼の名を書くたびに「また」と書かなければならない。)彼は「学校は?」と聞いたようだった。質問としては、あまりにも漠然としていたので、何とも答えられなかった。黙ったまま相手の顔を見つめているわけにもいかないので、視線を全然意味のない方向へ向けた。なまじ家を訪問し合うほどの間柄ゆえに、道で会う毎に一礼しただけで行き過ぎられないのは面倒なことだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/15/2005 12:26
 ケイトウの花、いいですね。幼い頃の家の二軒隣の角が小さな医院でしたが、そこの庭に並んで咲いていた光景が想い出されました。

Ted 08/15/2005 16:32
 この写真のケイトウは大小いろいろですが、紅い房状の花の丈が揃っていると、私はロンドンやオタワで見た衛兵交替の儀式を思い出します。

2005年8月12日金曜日

アヒルの身づくろい(写真)/ 母校創立105周年の集い


アヒルの身づくろい

 中の池公園のアヒルたちが、水浴びをした後であろうか、狭い岸辺に並んで身づくろいをしていた(2005年8月1日撮影)。

母校創立105周年の集い

 先日、金沢商業高校(私の在学前後の計10年間は金沢菫台高校、それ以前は金沢商業学校)創立105周年「友情の集い」の案内が、同窓会長と「集い」実行委員長の名で届いた(同窓会の名は、金商菫台同窓会という)。「集い」は2005年10月8日午後4時から、金沢全日空ホテルで行われ、松井さえ子氏(金商高9回卒)の記念講演があることになっている。

 松井さえ子氏とはニューヨーク・ヤンキース松井秀喜選手の母堂である。彼女がわれわれの14年後輩だったことを、この「集い」の案内状で始めて知った。何年か前の夏、星稜高校の一塁手・四番打者として甲子園へ出場し、敬遠の四球ぜめにあいながら、淡々として一塁へ歩き続けた松井選手をテレビで見た。彼は当時から大物になりそうな風貌を備えていた。その彼の母堂の講演は興味深いと思われる。

 しかし、10月17、18日には、菫台高校新聞部の同窓会があり、そちらへは、すでに5月に出席予定の返事を出した。その9日前にも金沢へ行くのは忙し過ぎるので、創立105周年の方は残念ながら不参加の返信を出すことにした。

 後日の追記:8月16日付け朝日新聞の全国高校野球選手権大会関連インタービュー記事「あのときアルプスにいた」によれば、松井秀喜選手が5連続敬遠を受け、星稜が明徳義塾(高知)に3対2で惜敗したのは、13年前の1992年8月16日、第74回大会2回戦であった。この記事で松井選手の後輩・山本英一氏は「あの試合についてこのごろ、むしろ、明徳の選手たちは嫌な思いをしなかったかな、と気になるようになってきました」と語っている。

団地の庭園(写真)/ Jack が生徒会議員に



団地の庭園

 1枚目の写真は、団地内の庭園を半ば逆光の条件で撮ったもの(堺市の津久野南団地で、2005年8月9日)。絵になりそうな風景なので、画像処理ソフト Adobe Photoshop (Ver. 5.0) で加工して、絵を模した2枚目のイメージを作成してみた。加工法と条件は、メニュー Filter > Brush strokes > Accented edges で、 Edge width 1, Edge brightness 35, Smoothness 3 に設定。

Jackが生徒会議員に

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月18日(土)晴れ

 人気者の Jack が生徒会議員に当選した! わずか数名の者が彼の名を書くか書かないかで決まることだが、今度の彼の当選は、何ものをも恐れなくなった(英語の試験だけは例外かも知れないが)彼にとって十分に相応なものだった。彼が荘重な空気の19番教室 [1] で、大きな口で何かを発言する図はピンと来ないが…。

 SN 君のホームでは、前期に議員だった YMG 君がホーム委員になり、陸上の KN、サッカーの KB と、スポーツクラブの2君が議会に進出することになったそうだ。

 数学の試験で始めて歯の立たない問題に出くわした、と思ったら、何のことはない、lim (x➝1) [1−(n+1)xn+nxn+1]/(1−x)2 とは、すなわち 1+2+3+...+n ではないか。3年生の1人が出来たそうだ。* [2]

*(欄外注記)後で聞いたところでは、彼は自然数1からnまでの和と気づきながら、それを n(n−1)/2 としてしまったそうだ。

 引用時の注

  1. 化学のための階段教室で、生徒議会はそこで行われていた。
  2.   1+2x+3x2+ ... +nx(n−1) = (d/dx)(x+x2+x3+ ... +xn)
                 = (d/dx)[x(1−xn)/(1−x)]
    を思い浮かべて、2行目の式の微分が問題の分数式に一致することを確かめれば、1行目左辺から n(n+1)/2 という答が出せるが、ヒントなしにこれに気づくことは難しい。「何のことはない」と書いたのは、先生の解説を聞いてのことだったか。分母が極限値で0になるとき、分子分母を微分して極限値を求められることを使うならば易しいが、当時は、それをまだ習っていなかったはずである。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/12/2005 10:34
 写真は印象派マネの「草上の昼食」のようですね。真夏の陽光で、目にする風景も溶けそうに暑い毎日ですよね。水彩画も自由度が高いですから、この風景もいろいろな表現方法があるでしょうね。
 私も今、高校『数学1+A』から復習し始めています。特別なニーズの家庭教師をするためですが。

Ted 08/12/2005 11:56
 絵の題材は、本当はどこにでもあるのですが、腕が伴わないので、つい題材選びに苦労します。大連嶺前小学校「美嶺展」出品の題材が、まだ決まりません。
 私たちの頃の高校数学の課目は、解析 I、解析 II、幾何という呼び方でした。

Y 08/13/2005 02:31
 今の高校数学は、「数学1+A」「数学2+B」「数学3+C」に分かれていて、「数学3」が理系数学のようですね。
 私の時代は、「数学1」「代数・幾何」「微分・積分」、そして理系数学の微分・積分でした。今は6分野(科目)に分かれているようです。この年齢になると、数学以外についても、各教科の面白さや意義が一段とわかってきます。

Ted 08/13/2005 08:26
 私たちの頃は上記3課目の他に、文系へ進学する、あるいは進学しない、生徒たちが履修する一般数学とかいう課目もありました。
 私も時折、高校で習ったことを復習する必要を感じますが、当時の教科書や参考書は処分してしまったので、近年、世界史や日本文学史の高校生向け参考書を買ったりしました。村田喜代子著『名文を書かない文章講座』(葦書房)に推奨してあった『高校生のための文章読本』と『高校生のための小説案内』(筑摩書房)(どちらかが推奨してあり、他方はアマゾンで注文する際に見つけて合わせて買ったのかも知れません)も、教科書のようなアンソロジーですが、面白いです。

2005年8月11日木曜日

『こころ』再読

 漱石の『こころ』を再読した。最初に読んだのは高校 2 年のときだったから、実に 53 年ぶりである。再読のきっかけは、次のようなことだった。ブログに連載中の高校時代の交換日記に、私が
 もしも、『夏空に輝く星』のテーマが君の思ったようなものだったら、…(略)…稔や敏夫はどのような考察をしただろうか。彼らの生みの親は、その解答にちょっと迷う。それは、身をもってする芸術であるとするか、『こころ』(まだ、読み終わっていない)の中で「先生」がいった言葉は真実であるとするか。

と書いたところがあった [1]。それに対して、ブログの友人 Y さんから

 『こころ』の先生の台詞とはどんなものを指しているでしょうか。「恋とは罪悪でございますよ」ではないですよね…。
というコメントを貰った。そこで、私は「先生」の台詞を確認する必要にせまられたという次第である。

 その台詞は、すぐに分かった。第十二章の終りで「先生」は「私」に、こういっている。「然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解ってゐますか。」まさに、Y さんの想像通りだった。

 『こころ』は 56 の章からなっているので、第十二章は、まだ、ごく始めの部分である。しかし、私は必要な答を見出して、そこで止めることをしなかった。途中で、竹西寛子の短編集 [2] を読んだりもしたが、きょう、『こころ』を読み終えた。読み終えて、巻末の小宮豊隆による解説を見ると、この作品は 1914(大正 3)年 4 月 20 日から 8 月 11 日まで、110 回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された、とある。奇しくも、91 年前のきょう、連載が終ったのである。

 漱石がこれを書いたのは 47 歳のときだそうだ。改めて、その構成と表現の巧みさに感じ入る。欲をいえば、「先生」とその親友 K が競って好きになった「お嬢さん」の描写がいくらか弱い。同じ人物の、「先生」の夫人としての「奥さん」時代はよく描かれているのだが、「お嬢さん」と「奥さん」の間にはギャップが感じられる。そして、「お嬢さん」の母である「奥さん」と「先生」の夫人の「奥さん」が、母と娘であるにしても、似すぎているように思われる。

 なお、この作品は、2003 年の岩波書店創業90年記念「読者が選んだ〈私の好きな岩波文庫 100〉」で、圧倒的な投票を得て第 1 位だったという。『こころ』が誕生から約 90 年を経たいま、なお好まれるのは、その中に見られる愛の形式によってではなく、「先生」の目を通した形で示される K における自己の信念と感情との葛藤や、「先生」における良心の呵責の、鋭い描写によってであろう。

 ちなみに、私は『こころ』よりも、上記の読者投票で 15 位だった『三四郎』(漱石 41 歳の作品)の方を好む。その理由は、よりモダンで明るいというところにあるだろう。上記の投票で、『三四郎』は漱石の作品としては、『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』に次いで、4 位だった。(『こころ』は [3] などで読めるが、私が今回読んだのは [4] である。)

文 献
  1. ハイビスカス / 漆黒の瞳…、"Ted's Coffeehouse" (2005 年 6 月 26 日).
  2. 竹西寛子編、蘭:竹西寛子自選短編集 (集英社文庫、2005).
  3. 夏目漱石、こころ (岩波文庫、1989).
  4. 夏目漱石、心、漱石全集(新書サイズ版)第 12 巻 (岩波書店、1956).

[最初の掲載サイトでのコメント欄からの転記]

Y 08/12/2005 01:14
 しばらくブログを休んでいましたが、『こころ』が記事タイトルにあがっていましたので楽しみに来ました。漱石作品は、私の今の状況でも本当なら日々、読みたいです。
 『こころ』の隠された焦点は、「私」が自発的に、同性の年上の人を「先生」と呼び続けて、その「先生」が倫理的な死を遂げたことの愛情関係ではないかと思います。というのは、私にとっての「先生」の論文でそのような内容のものがあったからですが。けれども同時に、「私」が直接には会いえなかった「K」に限って、その人格的な強靭さは鮮烈で、「先生」が「私」に語るべき唯一の事柄として「K」を「先生」の人生で生かしてきた…、といった構成が巧みだと思います。
 『三四郎』でも『こころ』でも、女性像はそれほど複雑ではないですね。ですが作家であっても、彼は男性か女性かどちらかである、という制約を外れないところが、かえって面白いかもしれません。すべて均斉の取れた芸術は、かえって貧弱になってしまいますからね。

Ted 08/12/2005 08:00
 Y さんのコメントを予めお断りすることなく引用して、失礼しました。ブログ執筆をお休みだったので、メールをお送りすることを遠慮した次第です。また、「8 月 11 日読了」に意味があったので、掲載を急ぎました。
 「私」が「先生」を尊敬し慕う、そして、「先生」が隠された過去を遺書の形で「私」にのみ打ち明ける、――これは確かに、同性の愛情関係という、一つのテーマをなしていますね。
 『三四郎』を高校生時代に読んだときは、美祢子に惹かれたものですが、数年前に再読して、彼女の発している言葉が意外に少ないのに驚きました。

ぱんだ 08/18/2005 15:55
 面白いですね。今年は「吾輩は猫である」発刊 100 年目だそうです。夏目漱石には心に残る名言が多いので好きです。私のブログでも記事にしたので、よかったらお越しください。コメントなんぞいただけると倍うれしいです♪

Ted 08/18/2005 16:25
 ぱんださん、コメント、ありがとうございます。「吾輩は猫」君が 100 歳になりましたか。ぱんださんの記事も読みに行かせていただきます。

後日の追記:最初の掲載サイトの記事が、ぱんださんからのトラックバックを受け、同サイトのトラックバック掲載欄にぱんださんの記事のタイトルと文頭が自動引用されていた。それをここに手入力しておく。
 呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする(夏目漱石) 親鸞会講師のブログ
 夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」ではじまるユニークなこの小説には鋭いメッセージがたくさん散りばめられています。… (2005/08/18 16:14)
追記への注:ぱんださんのブログは、著者名を 2010 年 5 月 2 日付けで「親鸞会講師の筬島」に変更されたようであり、タイトルの後の「親鸞会講師のブログ」という記述は、現行のもので置き換えた。

団地の夏(写真)/ 国体選手の壮行会


団地の夏

 写真は団地の夏景色。春には、この辺りへサクラを見によく来たが、いまはサルスベリが咲いている(堺市の津久野南団地で、2005年8月9日撮影。Photoshop で修飾)。

国体選手の壮行会

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月16日(木)晴れ、17日(金)曇り

 先生の言っておられることが違うと知りながら、先生の考え方からすれば正しいことになる答を書いてしまった。とにかく、明日は先生の間違いを正して来なければならない。

 MY 君を始め5名の国体出場選手の壮行会が昼食時にある。3年生の猛者連が贈った激励の言葉は、言葉というより、馬鹿力のこもった肩の振動と口の開閉とそれが揺すぶる空気の発する音響であった。昨日で生徒会の前期は終ったのだから、厳密に言えば前生徒会会長ということになる OK 君が小声で朗読した激励の辞は、よくこれだけの文を作れたと思うほど長くて、中腰に座っていたわれわれの脚を痛くするものだったが、内容が聞き取れたのは選手たちだけだっただろう。しかし、意気のこもった、選手たちを感激させるに足る会だったといえる。

 体操の時間、準備体操を班毎にした後で、トラックを2周した。Jack の後について走ったら、自分の足が身体を速く運び過ぎた結果となって、胃から少量の食物が逆流した。

 登校の途中、IT 先生と一緒になった。前を歩いておられた先生から「お早う」と声をかけられたのだ。歩きながら、学校までが長く感じられた。「新聞部やめますか」と聞かれた [1]。それに答えようと考えたが、学校へ入るまで、ついに答は出なかった。もちろん、それだけの時間で出るとも思わなかったし、考えていることも、先生に聞いて貰うには少し突飛な、そして複雑なことだったので、話そうとはしなかった。

 引用時の注

  1. この日すでに2年生の後期に入っていたので、3年生になってからの予定を聞かれたのだったか。それにしては、早過ぎる質問のようでもある。いずれにしても、私は2年生の後期には引き続き新聞部に在籍して編集長を勤め、3年生の前期から化学部に移ったのだった。

2005年8月10日水曜日

アサガオ(写真)/ ロボットになりたい



アサガオ

 左は、わが家で育てたアサガオ。右は、中の池公園でツツジの茂みに咲いていたアサガオ(2005年8月9日写す)。(後日の注:後者はコヒルガオかも知れない。)

ロボットになりたい

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月15日(水)曇り

 書物を読み、文字を記し、計算をするだけの働きが出来るロボットがあれば、それになってしまいたくなるほどに、いろいろな煩わしい感情が湧いてくる。かつ、それを自ら求めもする。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/10/2005 12:19
 簡潔なだけにいろいろと想像がふくらみます。

Ted 08/10/2005 14:58
 自分でも、いかにも青春時代らしい日記だと思いました。

2005年8月9日火曜日

アヒルたち(写真)/ 「独立した日本の地で…」


アヒルたち

 写真は中の池公園のアヒルたち。全部で、この3羽である。両親とその子なのだろうか。このとき、そろって元気よく水浴びをしていたので、周囲に飛沫がたくさん写っている(2005年8月8日写す)。

「独立した日本の地で…」

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年10月14日(火)晴れ

 「天高く馬肥ゆる秋! ここに絶好の運動会日和を迎えて、若き次の世代をになうわれわれ若人は、ここに集い、独立した日本の地で、この場所で、活気に満ちた運動会をおこなわんとしている」とわれらの生徒会長が開会の言葉を述べた。その言葉はまだ続いた。弁論大会のような口調で、とうとうと、終るかと思うと続け、やめるかと思うと思い出したように始めて、そのたびに聞くものを笑わせて、型破りの開会の言葉だった。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/10/2005 12:17
 昔は、体育祭も文化祭も秋に集中していたのですが、近頃の高校ではいつの頃からか、運動会は一学期に、文化祭は二学期の早いうちにとなっているようですネ。受験体制にとってこのほうがよいということでしょうが…。

Ted 08/10/2005 14:52
 春の運動会は、昔人間にはなじめません。いろいろなことが受験シフトというのも、味気なく思われます。