わが家の裏庭に咲いたモミジアオイ。2005年7月28日撮影。
作家・水村美苗の『今ごろ、「寅さん」』という文を読んだ [1]。『男はつらいよ』のシリーズ映画 [2] を、彼女は、今まで観たことがなかったという。そして、「新しいことがそのまま倫理的な位相をもちえた時代の落とし子である」彼女の両親は新しいものを好んだが、「並の大学生が近代批判を展開するような時代の落とし子であった」彼女とその姉は、むしろ「画面がざらざらする旧い映画」を好んだ、と述べる。この記述は、すぐには彼女が「寅さん」を観なかった理由にはつながらないが、次の記述と関連して、いくつかのパラグラフを隔ててつながる。(このような書き方は、随筆としては優れているが、科学論文ならば落第である。)次の記述とは、彼女とその姉には、思春期からアメリカで育った結果としての「狂い」があったということである。その狂いは、彼女にとっての日本を、そこから離れた昭和30年代の日本に固定したのだった。
水村がアメリカで暮らした間『男はつらいよ』を観る機会がなかったことは、彼女がそれを今まで観たことがなかった一つの理由であるが、それに加えて、彼女が子どものころ、東京の中産階級は洋画しか観なかったという『「中産階級的偏見」とでも呼ぶべきもの』も理由に挙げている。そして、それだけではなく、前述の狂いのせいで、1969(昭和44)年に第1作が封切られた映画は、彼女にとっては新しすぎたのだ。ところが、寅さん俳優・渥美清の死後半年ごろから新潮社の小冊子『波』に連載された小林信彦による彼のポートレート「おかしな男」を読み、「なぜ、生きている時に彼を知らなかったのだろうと、恋心さえ抱くようにな」る。その連載の終了から数年たって、「渥美清の死者としての濃度がさらに高ま」った今年の春、ようやく初編のビデオを借り、観終って「歓喜」が身体中にあふれたという。その「歓喜」は、『「今の日本」にかくもよいものを作ろうとする精神が存在していたのを知った喜び』だと記している。
私も「寅さん」に親しむようになったのは、渥美清の死後何年かになる数年前のことだった。私にも『「中産階級的偏見」とでも呼ぶべきもの』があったのだ。そのほかの点では、水村と共通の理由はない。しかし、私は寡作な水村の小説の第1作『續明暗』から、最近作『本格小説』にいたるまでの熱心な読者である。愛読者はその対象の作家に似た精神構造をもつのだろうか。私が「寅さん」を好きな理由を問われれば、水村の歓喜の内容と同じく、山田洋次監督を始め、俳優たちも一丸となって、多くの人びとの心をとらえるよい映画を作ったことだ、と答えたい。心温まる映画であり、郷愁性とユーモアもある、というだけでは、私がそれを好きになれる十分な理由にはならないように思う。
文 献
- 水村美苗、図書、676号、p. 2 (2005年8月).
- Web site 「男はつらいよ独尊記」参照.
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
テディ 07/31/2005 23:18
私も「寅さん」を見るようになったのは12年前、新婚旅行でオーストラリアのゴールドコーストへ行ったとき、泊まったホテルの日本語(ケーブル?)TV 放送が「寅さん」ばかり放送していたから、という皮肉な理由からですね。中産階級的偏見と言うよりは、私の母が大の洋画好きだったので、その影響で邦画に眼を向けることが無かったからだと思いますが。TV もアメリカのドラマばかり見ていました。しかし、今やあのぬるま湯的?というか独特の世界に郷愁を感じるようになりました…。
Ted 08/01/2005 08:07
私も TV を通じての(外国においてでなく、日本の自宅で、ですが)「寅さん」ファンです。今でも、もしも映画館でやっていても、わざわざそこへ見に行くほどのファンではありません。
四方館 08/01/2005 23:32
私は子どもの頃に親と一緒に邦画の大衆映画にどぶりと浸かっていたものですから、むしろ逆なのですよ。渥美清は東映の B 級映画でよく知っていたので、山田洋次監督の寅さんシリーズは劇場では封切りものを一度か二度見たことはありますが、松竹らしい文芸趣味と喜劇が同居した世界には些か馴染みにくいものを感じました。さらにいえば葛飾柴又の下町の味わいそのものが作りモノめいた感がつきまとうのでした。一言でいうなら、現代のメルヘン調喜劇とでもいう世界でしょうが、渥美清の芸質にほとんど毒性が抜け落ちているのが不満の種だったのかもしれません。
Ted 08/02/2005 07:58
劇映画は所詮「作りモノ」と思えば、私には、「下町の味わいが作りモノめいて」いることは気にならないのですが、演劇の専門家の四方館さんがご覧になれば、そこに一つのひっかかりがあるのですね。