2005年7月31日日曜日

モミジアオイ(写真)/ 死後に親しむ



わが家の裏庭に咲いたモミジアオイ。2005年7月28日撮影。

 作家・水村美苗の『今ごろ、「寅さん」』という文を読んだ [1]。『男はつらいよ』のシリーズ映画 [2] を、彼女は、今まで観たことがなかったという。そして、「新しいことがそのまま倫理的な位相をもちえた時代の落とし子である」彼女の両親は新しいものを好んだが、「並の大学生が近代批判を展開するような時代の落とし子であった」彼女とその姉は、むしろ「画面がざらざらする旧い映画」を好んだ、と述べる。この記述は、すぐには彼女が「寅さん」を観なかった理由にはつながらないが、次の記述と関連して、いくつかのパラグラフを隔ててつながる。(このような書き方は、随筆としては優れているが、科学論文ならば落第である。)次の記述とは、彼女とその姉には、思春期からアメリカで育った結果としての「狂い」があったということである。その狂いは、彼女にとっての日本を、そこから離れた昭和30年代の日本に固定したのだった。

 水村がアメリカで暮らした間『男はつらいよ』を観る機会がなかったことは、彼女がそれを今まで観たことがなかった一つの理由であるが、それに加えて、彼女が子どものころ、東京の中産階級は洋画しか観なかったという『「中産階級的偏見」とでも呼ぶべきもの』も理由に挙げている。そして、それだけではなく、前述の狂いのせいで、1969(昭和44)年に第1作が封切られた映画は、彼女にとっては新しすぎたのだ。ところが、寅さん俳優・渥美清の死後半年ごろから新潮社の小冊子『波』に連載された小林信彦による彼のポートレート「おかしな男」を読み、「なぜ、生きている時に彼を知らなかったのだろうと、恋心さえ抱くようにな」る。その連載の終了から数年たって、「渥美清の死者としての濃度がさらに高ま」った今年の春、ようやく初編のビデオを借り、観終って「歓喜」が身体中にあふれたという。その「歓喜」は、『「今の日本」にかくもよいものを作ろうとする精神が存在していたのを知った喜び』だと記している。

 私も「寅さん」に親しむようになったのは、渥美清の死後何年かになる数年前のことだった。私にも『「中産階級的偏見」とでも呼ぶべきもの』があったのだ。そのほかの点では、水村と共通の理由はない。しかし、私は寡作な水村の小説の第1作『續明暗』から、最近作『本格小説』にいたるまでの熱心な読者である。愛読者はその対象の作家に似た精神構造をもつのだろうか。私が「寅さん」を好きな理由を問われれば、水村の歓喜の内容と同じく、山田洋次監督を始め、俳優たちも一丸となって、多くの人びとの心をとらえるよい映画を作ったことだ、と答えたい。心温まる映画であり、郷愁性とユーモアもある、というだけでは、私がそれを好きになれる十分な理由にはならないように思う。

文 献

  1. 水村美苗、図書、676号、p. 2 (2005年8月).
  2. Web site 「男はつらいよ独尊記」参照.

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 07/31/2005 23:18
 私も「寅さん」を見るようになったのは12年前、新婚旅行でオーストラリアのゴールドコーストへ行ったとき、泊まったホテルの日本語(ケーブル?)TV 放送が「寅さん」ばかり放送していたから、という皮肉な理由からですね。中産階級的偏見と言うよりは、私の母が大の洋画好きだったので、その影響で邦画に眼を向けることが無かったからだと思いますが。TV もアメリカのドラマばかり見ていました。しかし、今やあのぬるま湯的?というか独特の世界に郷愁を感じるようになりました…。

Ted 08/01/2005 08:07
 私も TV を通じての(外国においてでなく、日本の自宅で、ですが)「寅さん」ファンです。今でも、もしも映画館でやっていても、わざわざそこへ見に行くほどのファンではありません。

四方館 08/01/2005 23:32
 私は子どもの頃に親と一緒に邦画の大衆映画にどぶりと浸かっていたものですから、むしろ逆なのですよ。渥美清は東映の B 級映画でよく知っていたので、山田洋次監督の寅さんシリーズは劇場では封切りものを一度か二度見たことはありますが、松竹らしい文芸趣味と喜劇が同居した世界には些か馴染みにくいものを感じました。さらにいえば葛飾柴又の下町の味わいそのものが作りモノめいた感がつきまとうのでした。一言でいうなら、現代のメルヘン調喜劇とでもいう世界でしょうが、渥美清の芸質にほとんど毒性が抜け落ちているのが不満の種だったのかもしれません。

Ted 08/02/2005 07:58
 劇映画は所詮「作りモノ」と思えば、私には、「下町の味わいが作りモノめいて」いることは気にならないのですが、演劇の専門家の四方館さんがご覧になれば、そこに一つのひっかかりがあるのですね。

セミとり




 今年はセミが多いように思われる。この辺りにいるのはもっぱら「シャー、シャー、シャー」とやかましく鳴くクマゼミだ。私が幼いころに住んだ石川県七尾市では、アブラゼミについで、ニイニイゼミやミンミンゼミも多くいたようだが、クマゼミは知らなかった。最近はどうなっているだろうか。小学校3年生で移り住んだ大連にいたのは、ミンミンゼミばかりだった。近所にいた同級生のワコウ君が、夏(あるいは夏休み)を待ち焦がれ、鼻を指でつまんで「ミーン、ミーン」とやっていたことがあったっけ。――先日こんなことを考えながら、ウォーキングの目的地、鈴の宮公園で、セミ取りならぬセミ撮りをした。帰宅して数えてみると14枚も撮っていた。そのうちの3枚をここに紹介する。1枚目の写真に、皆さんは何匹のセミをみつけるだろうか。――

 小学校1年生のある日、学校でミナミ君という級友と、午後セミ取りに行こうと約束した。ミナミ君とは、その後それほど親しくしなかったと思うが、彼の名前とその日のことをよく覚えている。その日、母は留守で、私が一人で昼食をしていると、ミナミ君がもう誘いに来た。その頃、身体の弱かった私は、食事をするのに時間がかかった。まだ、茶わんに1/3ほど飯が残っていたので、部屋へ上がり込んで来たミナミ君を待たせては悪いと思い、おひつのふたを開け、「もう少し食べるから、待っててくれ」と、逆のことをいって、残りをおひつへ戻した。そして、ほんのしばらく食べる真似をしてから、さあ、行こう、と小丸山公園へ出かけたのだった。すでに近眼になりかけていた私には、セミをみつけることが難しく、収穫をあげたのは、もっぱらミナミ君だっただろう。木立の間を嬉しそうに動き回る彼の姿が、いまも目に浮かぶ。――セミ撮りをしたのは、幼い日の不首尾だったセミ取りの代償である。――

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

かわせみ 07/31/2005 10:37
6匹ですね、1匹は非常に見つけにくいですが。
このあたりも、ミンミンゼミが多く、今日も朝から大合唱ですよ。

Ted 07/31/2005 15:23
 背を向けているのが見つけにくいですかね。
 東京方面はミンミンが多いですか。

かわせみ 07/31/2005 17:42
 多いですね、アブラゼミよりも多いですよ。夕方になるとヒグラシが鳴き始めて、涼しさを感じますがね。

Ted 07/31/2005 19:54
 ヒグラシも鳴くとは、いいですね。東京都でも都心から遠い方ですか。

かわせみ 07/31/2005 20:11
 遠いといえば遠いですかね。東京では普通の距離ですが。東京から電車で1時間ですから。一応東京都なんですが自然は豊富です。未だにホタルを見ることができる所もありますし、また湧き水が多くて小川がとてもきれいなんですよ。きれいな水草がゆらゆらとして、ザリガニもいて、今日も紺色できれいなオイカワがたくさんいました。

Ted 07/31/2005 20:19
 私のところは大阪から電車で1時間足らずで、近くに田畑はありますが、きれいな小川はなく、うらやましいです。

ヨハン 07/31/2005 19:59
 幼い頃の色々な思い出の中でもセミの声は音楽同様、かなり記憶に影響するものがあります。私の場合、神奈川出身のためニイニイゼミが夏休みの始まりで、アブラゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、と続き、楽しい夏休みの終わりを告げるのがツクツクホウシでした。クマゼミは昔付き合った女性の故郷で初めて聞き、今でもほろ苦い思い出のサウンドになっています。一週間の命と言われるセミは実は幼虫時代を含めれば一番長生きな昆虫だと言うギャップも含め、私にとっては魅力的な虫です。7年後の環境が悪化していないことを祈りつつセミと接する今日この頃?です。

Ted 07/31/2005 20:14
 クマゼミの鳴き声が「今でもほろ苦い思い出のサウンド」など、よい(?)お話をありがとうございます。セミの声が音楽同様に記憶に影響する、とは、まったくその通りだと思います。

テディ 07/31/2005 23:04
 大阪で現在クマゼミが大多数を占めているのはヒートアイランドの影響であることは間違いありません。生駒などの山手のほうでないと今やアブラゼミの声はかなり少ないです。かつては大阪のセミはアブラゼミの方が多数派だったのですが…。山の中腹に到ってやっとヒグラシの声が聞けると言うのが今の大阪のセミ事情ですね。ツクツクボウシにいたっては大阪でここしばらく聞いた記憶が私にはないのですが、実際はどうなのでしょう?

Ted 08/01/2005 07:59
 ヒートアイランド現象恐るべし、ですね。私もツクツクボウシを大阪で聞いた記憶はありません。

2005年7月30日土曜日

水生植物公園 2 (Garden of Aquatic Plants -2-)




 昨日(7月29日)から「エコー!」(後日の注記:本記事を最初に掲載したサイト)で3枚の写真を一度に掲載できるようになったので、草津水生植物公園みずの森 [1] 関連の残りの写真を、ここにまとめてご覧に入れる。いずれも、珍しいスイレンである。上から、インドの神様、エジプト産のニンフェア・カルレア、そして、私が名前を見そこねたもの(ご存じの方、教えて下さい)。ニンフェア・カルレアの気高い美しさは、クレオパトラを想像させる。

参考文献

  1. 水生植物公園 1.

Since yesterday it has become possible at the social networking service "Echoo!" (note added later: the blog site where this article was originally posted) to post up to three photos in a single article. So I can show you here the rest of pictures I took at the Garden of Aquatic Plants, Kusatsu (see [1]). All of them are novel kinds of water lily. From top to bottom: God of India, Nymphaea caerulea from Egypt and the one the name of which I missed to see (anyone who knows it, please tell me). The noble beauty of Nymphaea caerulea makes one suppose Cleopatra.

References

  1. Garden of Aquatic Plants -1-.


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

未月 07/30/2005 11:36
 写真が3枚UPできるようになったのは、知りませんでした~!
最近、ちゃんとエコログを書いていないからですね、きっと(笑)。真ん中のスイレン、まるで地上の星のように美しいです。

Ted 07/30/2005 12:01
 画像3枚までについては、昨29日午後2時55分付け「エコー!からのお知らせ」にありましたが、私も今朝ようやく気づきました。真ん中のニンフェア・カルレアは白っぽいですが、青いのもあり、そちらの方がエジプトでは宗教的な意味を持っているようです。

2005年7月29日金曜日

水生植物公園 1 (Garden of Aquatic Plants -1-)


 先週金沢への旅行をする前に、妻と私はテレビで「草津市立水生植物公園みずの森」[1] のニュースを見た。それで、金沢からの帰途、草津で途中下車し、そこを訪れた。その公園は琵琶湖岸の烏丸(からすま)半島にあり、三方を湖に囲まれている。

 公園の一方にはハスの群生地帯が接している(先に掲載の写真を参照)。また、公園内の「ロータス館」(アトリウムを含む)では、ハスやスイレンの他、多彩な水生植物や熱帯植物を観ることができる。写真は、そこにある珍しいスイレンの一種で、「シャムの王様」という名のものである。

参考文献

  1. ウェブサイト "草津市立水生植物公園みずの森."

Before going on a trip to Kanazawa last week, my wife and I saw a piece of news about the Garden of Aquatic Plants, Kusatsu [1] on TV. On our way home from Kanazawa, therefore, we stopped over at Kusatsu to visit that garden. The garden is located at the Karasuma Peninsula in the Lake Biwa, and surrounded by the lake in three directions.

On a side of the garden there is a clump area of lotuses (see the photo posted previously). In "Lotus House" (with an atrium) of the garden, we can see many kinds of lotus and water lily as well as other aquatic and tropical plants. The above photo shows one of novel kinds of water lily there. Its name is "King of Siam."

References

  1. Web site "Garden of Aquatic Plants, Kusatsu" (in Japanese).

2005年7月28日木曜日

金沢21世紀美術館 (The 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa)



Read in English.

 私が金沢21世紀美術館(写真)を最初に訪れたのは、2004年10月9日の開館から1週間後のことだった。先週の金曜日(2005年7月22日)、妻とともに再度訪れた。この美術館1階のガラス製最外壁は直径112.5 m の円を形作っており、美術館へあらゆる方角から立ち寄ることを可能にしている [1]。

 今回はそこで、「マシュー・バーニー展:拘束のドローイング」と「コレクション展示:アナザー・ストーリー」を観た。バーニー展は、彼のいささか奇妙な絵(例えば、トランポリンの上で跳躍しながら天井に描いた自画像)、彫刻、写真、そして映画(捕鯨や茶道などのイメージを用いて、繰り返される新生と崩壊を暗示する抽象的な物語)を寄せ集めたものであった。

 「アナザー・ストーリー」は、世界に多様な形で存在する事象や人間の知覚と価値観の一端を紹介することを目的としていた。私には、カーステン・ニコライの「ミルク」と題する作品が興味深かった。それは10枚のモノクロ写真からなり、トレーに入れたミルクを10~110ヘルツのいろいろな周期で振動させて、その表面に出来た模様を撮ったものだった。一つあるいは多数で模様を構成するソフトな半球は、ミルクの源泉、すなわち乳房を連想させた。


  1. ウェブ・サイト "金沢21世紀美術館".

2005年7月27日水曜日

水生植物公園みずの森(写真)/ M・Y 君からの感想:2005年6月分


写真は草津市立水生植物公園みずの森で。
2005年7月23日。

 さる7月18日付けで、M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 6月分への感想文を貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。例によって、たいへん長い文だったので、一部を割愛した。青色の文字をクリックすると、関連ページが別ウインドウに開く。


1. 随筆

(1) 「代用教科書のことなど」

 終戦後大連に留まった日本人の学校での勉強の様子を興味深く読みました。代用教科書も優れていて、治安も保たれ*、敗戦後も学校で勉強できたことにやや驚きを感じました。戦中の思い出で「軍人勅諭」の小冊子を持ち暗記に努めたとあります。私は3年生の秋に日本に引き揚げましたが、4年生の時「教育勅語」を毎朝クラス全員(4年生から男女別クラス)が起立し暗誦させられたことを憶えています。

 *(引用者注)治安については、敗戦後間もない時期には、駐留したソ連兵が日本人の民家へ略奪に入ったり、婦女に乱暴を働いたりする事件が多くありましたが、その後、改善されたようでした。

(2) 「ミドルネーム」「小学校同級会」

 61名中20数名が郷里の温泉に集まっての同窓会が、卒業後60数年経ってよく開催できましたね。友人の一人で好ライバルだったカルフォルニア大学勤務の女性の、はるばるの出席が彩りを添えたことでしょう。クラスメートたちのクラスへの深い思いが持続するよい故郷なのだろうと想像されます。

(3) 「元上司への礼状」

 物理的世界観がいずれ宇宙のすべてを統べる法則を見出すだろうと「邯鄲一炊の夢」を夢見られる遠大にして高邁な思想をお持ちの元上司への礼状の終りに、「ヒト族の途絶えた地球の空しさが予想されるからこそ、ヒトはつまらない紛争をやめて、今をよりよく生きるべきではではないかと思います」と書かれたとは、うまく締めくくられたものと思います。よい上司に恵まれましたね。

(4) 「靖国についての米国新聞記事」

 靖国問題に対する米国の沈黙の理由や首相の靖国参拝の理由(郵政民営化を始めとする彼の政策に右翼政治家の支持を得るためと見る)についての米国紙の見解を紹介されたことは、この時期に当たって意義あることと思います。

2. 写真

 「京都府北部への旅行」の写真は、スケッチやその説明とともに、楽しく拝見しました。北吸トンネル、舞鶴市制記念館、れんが博物館など歴史的なれんが建造物が美しいです。旧海軍の名残があるのですね。大山崎山荘美術館にまつわる加賀正太郎の洋ランの逸話(「洋ランと平和を愛した男」)とチューダー式邸宅を初めて知りました。同窓会が行われた金沢の写真*、堺市近郊の四季折り折りの写真**とお宅の百合の花***、みなよく撮れていて、目を楽しませてくれます。

 * 金沢駅の鼓門犀川峡温泉「滝亭」遠望「滝亭」付近の犀川卯辰山の菖蒲園
 ** アジサイタイリンキンシバイブーゲンビリアハスカンナムクゲ
 *** ユリ

3. 交換日記

(1) 「父の命日」

 8月27日の父君の命日に祖父君がお経を上げられる記述を読み、当時は毎朝簡単な経と戒名を唱え、お祈りする敬虔な風習があったことを思い出します。最近はお寺も後継者難で、私の郷里の菩提寺では、檀家とお寺の後継者の間がうまく行かず反目状態が長く続いています。法事はもちろんのこと、葬儀も同宗派の連携寺にお願いしなければならず、迷惑を蒙っています。後継者は寺を継ぐ意欲はあるようですが、檀家の代表は適格条件に固執し、このような事態に至っています。少子化や若者の考え方の変化を考え、鷹揚にかまえ、悪ければ指導するぐらいの心構えが必要でしょう。

 文末にある Ted の父君の思い出と「Sam には新しいお父さんがあるようだね。どんな方か、機会があったら、書いてくれ給え」にはしんみりさせられます。

(2) 解析 II、物理

 Ted の日記の9月19日*に解析 II のことが、また、8月22日**と9月1日***に物理のことが出ています。解析IIで微分の概念に興味を感じ、物理の問題集のまだ習っていないところの理解に骨を折り、熱現象、熱理論を読み流したなど、両科目に興味をもち取り組んでおられたようです。私の高校では2年生では幾何と化学を、解析IIと物理は3年生で履修することになっていました。高校の普通科ではそのようなカリキュラムの組み方に合理性があろうかと思われますが、理科系を志望する生徒にとっては、1年足らずで大学入学試験レベルの学力をつけるには、ことに物理では苦労させられました。

 *「交換試合を1インニングだけ観た」
 **「予定の半分にしか達していない」
 ***「簡単に解いてやった」

(3) 「伯母に漢詩和訳を習う」

 中国のほうぼうを実際に見て来られた経験豊かな伯母さんに漢詩を習い、「科学的な考え方をする心」も教わることができて幸せでしたね。伯母さんが例示された和訳も、地理と国語の薀蓄を傾けた文学性豊かなもので、流れるように読まれます。

(4) 「いもがゆ」「夕鶴」

 これらは、Sam に質問されて答えた意見とのことであり、友情が感じられます。「いもがゆ」について、宇治拾遺では現象的、芥川のものは心理的で、同じいもがゆを媒介として書かれた、筋もほとんど同一の二つの作品は、完全に別の道を行くものであるという見方や、「夕鶴」の主題は簡単にいえば「愛と欲」で、もっと簡単にすれば「欲」となるだろうか、という見方は鋭いと思われます。

(5) 「夏空に輝く星」に関連して

 夏休みの宿題として書くべき主人公についての意見を貰ったSamに対して、完成した作品「夏空に輝く星」への彼の理解と自分の意図との相違を説明したり、友人たちの作品* **を読んでの感想とあわせて、自身の作品の主題に対する迷い(身をもってする芸術とするか、『こころ』の中で「先生」がいった言葉は真実であるとするか***)を打ち明けたりしています(「漆黒の瞳…」の後段)。

 * 女性の登場そのものがテーマの Jack の作品。次のパラグラフに引用の8月24日の Ted の日記参照。
 ** 風物や人生に対する俳諧の精神に近い感じ方・見方が述べられている Twelve の作文。「友の田園情緒の作文を読む」参照。
 ***(引用者注)この()内に引用されている言葉は、M・Y 君が受け止めたように、私自身の作品の主題に対する迷いを表現したものではなく、仮に男女の愛をテーマに取り上げたとすれば、どのように描いただろうか、という自分への問いかけです。

 8月24日の Ted の日記では、Jack の小説を Sam と一緒に鑑賞した記述に関連し、「ぼくも自分で一応満足の出来る、もっと新しいものを作るべきだった。しかし、そのためには、時間的制約のないことが必要だ」ともらしています。

 また、展覧会で「秀作」になったHS君の抽象絵画が理解できない(「『秀作』の絵が理解できない」)と述べたり、北国新聞の「"何が描いてあるか" から "何を感じるか"に」の記事を読んで、芸術の主観性・客観性についても考え、「この記事にある、この頃の画家は"何を描くか" という写真の代役的なものから "何を表現するか" という主観的なものになった、という言葉は、ぼくに一本の針を突き刺した。「夏空に輝く星」で芸術の客観性を肯定させた。難しい。主観・客観ということそのものが分からなくなってきた」(「絵画の主観と客観」)と悩んだりするなど、自作についての真剣な論評がなされており、作品に打ち込んだ情熱が感じられます。

(6) 英語のアクセント

 9月11日の日記の最終パラグラフに、中学時代に習った単語*のアクセントを豪も怪しまず憶えていたのが、間違いであったことが記されています。当時の中学の先生の英語は、発音はいうに及ばす、アクセントさえも間違いが多かったようで、私も後で間違って記憶したもののリセット訂正に苦労しました。

 *(引用者注)私が記したのは、英語の先生に習った単語ではなく、理科の時間に習ったもので、アクセントも、自分で勝手に思い込んでいたふしがあります。したがって、後に書いてあるM.Y.君の思い出とは少し種類が異なります。

(7) Sam の日記

 「盆踊り」には、「それは、健全なダンスであるとともに、妖艶な社交場でもあり得る。そして、この両面を持てばこそ、踊りの輪は回るのであろう。…それに見入る人びとの顔もまた楽しからずや」と、盆踊りの様子が情緒豊かに描かれています。私の中学時代には一時期まで旧暦に基づいて盆が行われていました。盆踊りのころは農家は田の草取りなどの農作業も休みにし、満月(旧暦では、盆は丁度満月)の月明かりの下で、老若、ことに若男女が太鼓と歌に合わせて、まさにSamの描くように社交場として、広場で盆踊りを楽しむ素朴な情景を墓参りの後の月明かりの散歩の通りすがりに眺めた思い出があります。

 「根拠のない噂」は映画 "The Well" 鑑賞後の感想で、その内容をうまく説明した後、若い正義感の発露でしょうか、「日本における青い目の子どもたちの問題や在日韓国人のデモも相似た事実として慎重に考えなければならない」との見解を付記しています。「御影大橋の渡り初め」は、地域の方がたが、橋の完成が郷土の発展に果たす役割を期待している情況が活写されており、また、時代をよく反映していると思います。「国体参加援助費一人当たり700円」では、生徒会会計の役をうまく果たしている様子がうかがえます。

(8) その他

 普段口数の少ないTedは、英語の朗読の終わり近くで口が渇いてしまい、いま思うと冷や汗の出るような読み方をしたと書き(「2ページの朗読に疲れる」)、数学の問題を「歩きながら考えるのは…」、まったく自由な気持ちで、自分の力でその問題にぶつかってみることが出来る、と感じ、SNN 君の質問した物理問題のどれも「簡単に解いてやった」り、国語では、別クラスで「2番目の Vicky にさえも完敗」、と悔しがり、「試験が終わりトランプに興じ」、放課後廊下で行き違った Vicky の顔は「あまりに蒼白く」、どうみても愉快そうでなかったので、極端に顔をそむけてしまい、Sam が生徒会会計の役をうまく果たしているのに、ぼくは自分の役目(学校新聞製作)に何と熱が入らないのだろうと悩み(「漆黒の瞳…」)、アセンブリーのスクール・クイズに出場した際、3年生の文化委員長との間のわだかまりが取れた(「デカンショ」)と喜んだ、等々、高校生活が個性的に記録されています。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/29/2005 12:09
 月例のこの感想文を拝見するのも愉しみのひとつとなりましたね。

Ted 07/29/2005 20:18
 たまに、または、新しく私のブログを読みに来られる方への紹介になればと思い、ありがたく引用していますが、よく読みに来て下さる四方館さんにとっても面白いですか。

2005年7月26日火曜日

日本最古の噴水 (The Oldest Fountain in Japan)



【Read in English.】

 兼六園の噴水(写真)は私の特別な記憶と結びついている。私の兄の一人は、私より6歳年長で、9歳で死んだのだが、彼はこの噴水の未完成の絵を遺した。私はそれを、彼が死んだと同じ歳になるまで持っていたのである。それで、近年私は兼六園を訪れるたびに、この噴水を見に行く。

 先週の金曜日、妻と私は兼六園を横切って、金沢21世紀美術館へ行き、途中でその噴水を見た。噴水脇の立て札に何が書いてあったかを、これまで覚えていなかったが、以下の通りであった(文中、「霞ヶ池」とは兼六園内にある大きな池のことである。)。

   噴水
1861(文久元)年につくられた日本最古の噴水である
霞ヶ池を水源としており 池の水面との落差で 高さは約 3.5 m 吹き上がっている
   Funsui (Fountain)
Japan's first fountain built in 1861


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


Y 07/27/2005 08:09
 時間が経つほどに、昔のことは大事になってきますよね。お兄さんが描かれたのはどんな絵でしょうね。日本最古の噴水は、さすが奥ゆかしい趣をたたえていますね。兼六園内にあるのですから、大切に保存されていくでしょうね。

Ted 07/27/2005 11:42
 この写真は、立て札の文字をメモする代わりに撮ったもので(掲載のサイズでは、読めませんが、デジカメで撮ったままのサイズでは、よく読めました)、噴水の写真としてはよい構図ではありません。他方、兄の、未完成というより、描き始めたばかりのような絵には、噴水は画用紙の中央にバランスよく配置されていました。噴水の円筒部分は焦げ茶色のクレヨンで、輪郭だけを描いたところだったように記憶しています。

かわせみ 07/27/2005 20:40
 私も実家に帰ると母親が昔の私の絵を保管していたりするので、子供のころの絵を時々見ることがありますが、結構歳をとってくると、それもまたいい感じですね。若いころは、なんだよ、という感じでしたが。

Ted 07/28/2005 08:17
 私は自分で何枚か保管しています。物をほんの少ししか持ち帰れなかった大連からの引き揚げの時にも、大切に持ち帰っているから不思議です。一番古いのは、小学校2年生の時、図画の教科書にあった手本に習って学校で描いたらしいダルマの絵ですが、戦争中の紙不足を反映して、使用済みの便せんの裏に描いてあります。
 その絵を含む何枚かを、以前ホームページに掲載していましたが、サイトの残り容量が少なくなり削除しました。その後第2、第3サイトを作りましたので、いずれ復活させたいと思っています。

2005年7月25日月曜日

ハスの群生(写真)/ 第55回パグウォッシュ会議(広島)へのメッセージに賛同



写真は草津市立水生植物公園みずの森のハスの群生。
2005年7月23日撮影。

 核兵器の廃絶を目指して活動する科学者の国際組織・パグウォッシュ会議の第55回年次総会が7月23日から27日まで、被爆60年を迎える広島の平和記念公園・国際会議場で行われている。先日、「関西平和研究グループ有志」からこの会議へ送るメッセージ(英和両文)への賛同を求めるメールを受け取った。私は賛同署名人の一人になることを了承する返事を、同グループの世話人へ送った。以下にそのメッセージの和文版を紹介する。

   第55回パグウォッシュ会議(広島)へのメッセージ

 第二次世界大戦の終結から60年、ラッセル・アインシュタイン宣言から50年を迎える2005年7月末、広島で開催されるパグウォッシュ会議へ参加の皆さんに、関西に在住するわれわれ日本の科学者は、心から連帯と歓迎の意を表します。

 第二次世界大戦に重大な責任を負うわが国は、戦後日本国憲法九条において、戦争の放棄と戦力の不保持を内外に誓い、また日本学術会議もその設立総会 (1949.1.22) において、わが国の科学者が過去にとりきたった態度について深く反省し、わが国の平和的、文化的復興に貢献する決意を新たにしました。

 以後半世紀、ことにラッセル・アインシュタイン宣言に署名し、第一回パグウォッシュ会議に参加した湯川秀樹 (1907~81) らによって1962年京都において創立された科学者京都会議は、この憲法九条の平和原則こそは、核時代のさまざまな脅威を超えてもはや国ごとの軍備を必要としない真に平和、かつ公正な世界システムをこの地球上に実現する布石として、人類史的意義をもつことをくり返し内外に訴えました。しかしその念願に反し、今日国内外の政治的諸要因によって、憲法九条はかつてない存続の危機に瀕しています。

 われわれは、日本国憲法九条がラッセル・アインシュタイン宣言とともに、核兵器廃絶後の世界、人類の未来への布石として先見的、人類史的な意義もつことを確信します。この会議に世界から参集された皆さんが、われわれのこの見解を支持され、現代の科学と技術について最高の洞察を踏まえた Pugwash Conference on Science and World Affairs の名において、このことを全世界に表明されることを要望します。

 最後にこの記念すべき第55回パグウォッシュ会議のご成功を心より祈ります。

  2005年7月14日

関西平和研究グループ有志

物理学の「場」(The "Field" in Physics)


写真は金沢城の石川門。先に掲載のものは石川橋と合わせて撮ろうとして、石川門の櫓があまりにも真正面になったので、これは少し左へ移動して撮った(2005年7月22日)。

The photo shows Ishikawa-mon Gate of Kanazawa Castle (taken July 22, 2005).


物理学の「場」(The "Field" in Physics)

Read in English.

 私のブログ友だちの一人・Y さんの最近の記事 [1] 中に次の文があった。

福祉現場や福祉的活動であれ、社会のさまざまな現象であれ、ひとのふるまいに接してそれを研究する場合、彼が語り、動き、私もそこに居合わせるひとりとして多くのことを感じる。この「場」を形成する動きについて私は学問的に考察する。

私はこの文を読んで、社会福祉の研究は素粒子の研究に似ていると思った。両者はともに相互作用や「場」に関わるのである。この思いから、物理学において重要な「場」の概念について、ここに簡単に紹介したいという気になった。

 私たちは、日常生活において、磁力や電気力、重力に接するが、これらはそれぞれ、磁場、電場、重力場によって生じている。皆さんは、棒磁石の周囲に鉄粉を撒くと、磁場の様子を見ることができるのをご存知だろう。電場と磁場は電磁場として統一できることが、J・C・マクスウエルによって、19世紀に理論的に発見された。このような場を媒介するものは素粒子である。電磁場は光子によって、重力場は重力子によって媒介される。(重力子は、実験的にはまだ発見されていない。)

 各種の素粒子は、光子やグルーオンの質量がゼロである場合も含めて、一定の質量を持っている(グルーオンは、「強い原子核の場」を媒介する粒子であり、この場がクォークを結合して陽子や中性子を作っている)。現在、物理学者たちは、質量は素粒子が「ヒグス場」と名づけられた場と相互作用することによって生じ、また、ヒグス場は「ヒグス・ボソン」という名の素粒子によって媒介されると考えている。(この考えは、素粒子物理学の標準模型や超対称標準模型をもとにしたものである。)――ここで皆さんは、「鶏が先か、卵が先か」という問いを思い浮かべるだろう。――

 高エネルギー実験物理学という分野では、現在、上記の考えを確かめるために、ヒグス・ボソンを発見することが一つの主な目的になっている。そのためには、アメリカのフェルミ国立研究所にあるテバトロン・コライダーや、ジュネーブの近くにあるヨーロッパの素粒子研究所・セルンで建設中のラージ・ハドロン・コライダーなどの巨大装置が使用される。それは人類の知の最前線を推し進める壮大な計画の一つである。(質量とヒグス場については、最近のサイエンティフィック・アメリカン誌 [2] で、もう少し詳しく知ることが出来る。)


  1. Y, Deed to produce happiness (July 17, 2005) (In Japanese; this Web page disappeared later).
  2. G. Kane, "The Mysteries of mass," Vol. 293, No. 1, p. 31 (2005).

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/27/2005 08:41
 わかりやすい英語で、なかなか知りえないことがよく勉強できました。今の福祉の研究状況では、interactions や "field" についての考察だとはっきり表明する人は、とくに "field" =「場」という概念のほうは、「(福祉)現場」という言葉ほどにはまだまだ普及しきっていませんが、内容的にはこれらの概念に集約される研究が多いですし、いずれこのような理論的抽象度をもって、先行する近接分野の研究とも話がかみあうようになることだろうと思われます。
 物理学では、場にしても素粒子にしても、理論的にその存在が発見されるほうが先行するのですね。それを実験物理学で確認することが、巨大装置を必要とするおおがかりな課題となるのですね。

Ted 07/27/2005 11:57
 嬉しいコメントをいただきました。物理学の理論はそれを整理、発展させる段階では抽象性が役立ちますが、数学とは異なって、実験的に検証できる具体的な予測を導くことなく、抽象性だけで終ってしまってはいけないのです。福祉の研究においても、抽象性の導入が役立つ場合があっても、そこから導かれる結果は、現実に福祉の向上に役立つことが重要かと思います。

石川門 (Ishikawa Gate)



[Read in English.]

 7月21日から23日まで、妻とともに金沢と山代温泉への小旅行をした。金沢での1日目には野田山墓地と、寺町と野町の寺にあるわれわれの先祖の墓に参拝した。

 野田山墓地の、われわれが利用する一つの入口近くを、幅広い自動車道路が貫通することになり、工事中だった。歩行者の横断方法はどのようになるのだろうか。少なくとも一部の参拝者たちには、たいへん不便になりそうだ。

 2日目の午前、JR 金沢駅前から「城下町金沢周遊バス」を利用し、金沢城・石川門(写真)の近くの兼六園下で下車、兼六園内を少し歩き、金沢21世紀美術館を訪れた。

 旧金沢城の敷地は1871年から終戦まで、陸軍が使用し、1949年からは、代わって金沢大学がおかれた。金沢城跡のシンボルと大学の門を兼ねた石川門は、1950年に国の重要文化財に指定されたが、大学キャンパスは1978年から1995年にかけて別地区へ移転した。移転完了後、城の敷地は金沢城公園 [1] として整備され、写真の石川門の前に見える橋(石川橋)は、現在、兼六園と金沢城公園の二つの公園をつないでいる。

 今回の小旅行については、なお少し記述する予定である。

  1. 金沢城公園, 石川県ウェブ・サイト.

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


Y 07/25/2005 02:03
 確か、お城の敷地に大学がおかれているという、贅沢なロケーションのキャンパスを有しているのが金沢大学だったのでしょうか、そんな国立大学があると写真などで見たことがあります。金沢大学は移転されてしまったのですね。金沢は、いつ訪れても見どころの多い、豊かな歴史と文化を備えているでしょうね。

Ted 07/25/2005 08:15
 金沢城は石川門以外ほとんど消失し、その跡地に金沢大学の法文学部(現在は文、教育、法、経済の各学部に分かれています)、教育学部、理学部があったと思います。(理学部の一部はその近くの旧四高跡にもあったかも知れません。)私たちの高校生時代に、いまの大学入試センター試験の役割を果たしていた進学適性検査というものがありましたが、私は城跡の金沢大学会場でその試験を受けました。上記の各学部は現在、市の中心から南東へ約5km離れた角間というところへ移っています。(医・薬学部と工学部は始めから小立野のそれぞれ別の場所にあり、そのままです。)城の跡地が金沢城公園になる際、いくつかの城の建物が復元されたようです。金沢は観光地としての整備にも力をいれているようで、訪れるたびに、住んでいた頃には知らなかった金沢を知る楽しみがあります。

2005年7月20日水曜日

サン・ピエトロ大聖堂など(写真)/ 多忙以外に表現の言葉を知らない


 ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂内部。奥のペテロの玉座を中心に撮ったのだが、左下に他の人が撮影したときのフラッシュが写り込んだので、左をカットした。2003年5月15日撮影。

 後日の追記:この記事を掲載した翌夕、NHK総合テレビで、たまたま、「探検ロマン世界遺産特選:バチカン市国」の放映があり、写真の場所の映像がしばしば出たことであった。


ローマの街角:その2。2003年5月14日撮影。

多忙以外に表現の言葉を知らない

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月12日()雨

 16題ある復&研 (9) の4以外を征服した。Jack に割り当てられているその問題は、積分が必要なので、いましばらく解けない問題なのだ。*

*(後日の欄外注記)積分を使わなくても解けるのだった。

(Sam)

 「毎日一行くらいは書き給え。」
 「うん、そうしよう。そうでなければならない。」
と決心しながら、二週間余もページをめくらなかった。
 「あんまりだ!」「あんまりだ!」
 でも、いまからでも遅くあるまい。――以下記憶をたどる。詩歌とは静かなる所にて思い起こしたる…というような気持ではなく、もっと悲愴な気持で――。

 十月の第二週は記念行事の準備の最後の週であった。記念行事委員会のために、第一教官室の隣の応接室兼放送室を貸して貰い、シミキン、トンチ、アンマ、マンゲツという三年生の連中と二年生の男女委員たちが激しくこの室を出入りし、協議した。印刷所へ、図書館へ、能楽堂へ、H.B.H. へ、市警へ、PTA 会長宅へ、それぞれ用件を持って出向き、顧問のアドバイスによってプランの変更を余儀なくされたり、出場出演クラブとの打ち合わせをしたり、――。課業後から夕方までの短い時間は多忙であった。多忙以外に表現の言葉を知らないが、とにかく、大変なものだった。そんなに大きな障害はなかった。すべてがうまく行きそうだった。

ヴィラ・ディ・ミステリ(写真)/ ありゃ、一人沢山いる?



 ポンペイの町はずれにある遺跡、ヴィラ・ディ・ミステリ(秘儀荘)。内部の壁面一面に、ディオニソスの秘儀の様子を描いた貴重な壁画がある(2003年5月14日撮影)。

ありゃ、一人沢山いる?

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月11日(土)雨

 川上と飯田のホームランの応酬を聞きながら、祖父との遅い昼食を終える。編集長改選の宣言は、かえって自分を看板だけの編集長に固定した結果となった。
 運動会、旅行、それに、きょうの授業を8時に開始して3限を来週の H へまわして学校中が待機した北信越校野球大会と、何から何まで雨に降られる。
 シーザーとクレオパトラがアントニウスとクレオパトラになった昨日の世界史の時間のことである。出席簿の名前を呼ぶ代わりに人数を数えてすませようとした MY 先生は「ありゃ、一人沢山いる?」と、丸い目をますます丸くしていわれた。われわれも、この珍事に目を丸くした。すると、何のことはない、後ろの方で「転校して来ました」という声があったので大笑いになった。

中の池公園で(写真)/ このレッスンのエースは誰かね



 中の池公園は名の通り、池を中心に遊歩道がある小さい公園である。ピンクの花の咲くハスはコンクリート製の円筒型育成筒に植えられて、2ヵ所にある。他に白いハスやガマ、ハナショウブなどの育成筒もある。ハスの花もそろそろ終りに近づいたようだ。向かって右側の花の、画面右やや上の水中に見える黒い点は、カメが頭を出して泳いでいたのである。(2005年7月17日撮影)。

このレッスンのエースは誰かね

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月10日(金)晴れ

 昼食後、講堂で明日の野球の応援の練習がある。声と身振りで800余名を巧みに操ることの出来る数名の3年生が、代わる代わる卓球台に上って二拍子や三三七拍子や「フレーフレー菫台」をやった。「汽車の旅」をやろうとして台に上がり、その長い顔の中で、途方もなく大きく口を開けて一声叫んでから、両手の扇子を交互に動かした NG 君は、再三やり直したが、うまく調子が取れなくて、断念しなければならなかった。彼の代わりに頼まれて登壇したのは豪快な胆の持ち主である NS 君だった。彼は見事に調子を取って、「ストップ」の後の三つの拍手を綺麗に揃えさせたばかりでなく、彼自身の指導力に対する賞賛の拍手をも巻き起こすことが出来た。

 放課後の編集室へ KD 君(金大医学部へ進学)が来て、先日発行した刊行物を見、感じのよい能弁でしゃべりなどして行く。OS 君がいつも寒そうに隅の方に立っていて、IN 君が何にでもわずかの驚きを含ませたような声で相対し、F・NK 女史が灰色のオーバーのポケットに手を突っ込んで微笑んでいて、長身の YS 君が高い鼻の下にある口から分別のある言葉を発し、そして額の大きな KD 君が早口に何かをしゃべっている [1] ――こんなのが2月頃の編集室だったが、いまはどうだろう。もうしばらくすると、どうなるだろう。

   菫台高校校歌から         紫錦台中校歌から
   (1行ずつ抜粋、          (左に同じ)
    対応の関係で
    重複もある)       

  星に久遠のあり         金色(きん)のに天(あめ)
                    なるや
  あゝ若人の夢はるか        青き山なみ遥かなる
  崇き希望(のぞみ)に集い来し   希望の光身に浴びて
  真理の淵を究めなむ        真理と正義の二すじを
  あゝ人の夢はるか        草映ゆる黎明の
  浄(きよ)らに毅き啓示あり    心清らに手をとりて
  さやけく明けよ美(うま)し   平和のの礎と
  溢るる情熱(こころ)一筋に    清らに手をとりて

 二つの校歌において同じ単語のある行を対置してみた。共通の語句がこれだけあるばかりか、両校歌はともに「む」という意志を表す助動詞で終っている。

 解析の教科書はつねに1週間分ほど予習してあるのだが、いまは非常に切迫した状態だ。そこへもってきて、いままでになかった事態が生じた。復&研の問題と、その前にある少しの問題を1人に1題ずつ割り当てられ、黒板のところで解かされるのだ。復&研の8を割り当てるとき、K・B 先生は、「これはちょっとうるさい問題だね。このレッスンのエースは誰かね」といって、それをぼくに当てられた。

 引用時の注

  1. いずれも3月に卒業した新聞部の先輩である。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/20/2005 15:19
 七五調の歌詞はもちろんですが、詩句においても定型の句がかほどに重なっているのですね。
 私たちの頃にはさすがに民主化も進んでか、野球の応援などで昼休みとはいえ全校生徒を強制して練習するなどということはありませんでした。ホームルームの時間を利用した全校集会や、放課後の臨時生徒集会はありましたが。

Ted 07/20/2005 17:24
 800余名といえば全校生徒ですが、この年、わが校の野球部が強かったのと、北信越四県からの代表校による大会が近くの兼六園球場で開催されるということで、強制しなくても、ほとんど全員が集まったのだと思います。この頃わが校で、「応援団」(応援をするときのリーダーを指したと思います)の設置という出来事があり、「菫台時報」紙に、一般生徒の応援への参加が強制にならないようにという意見を含めた論説を私が書いたように思います(いずれ日記に出てくるかも知れません)。

2005年7月19日火曜日

ローマの街角:その1(写真)/ 説得の困難 (Difficulty of Persuasion)



写真はローマの街角風景。宿泊したホテル、ビスコンティ・パレス
の部屋の窓から、2003年5月14日撮影。

説得の困難 (Difficulty of Persuasion)

[Read in English.]

 [概要 (Abstract in Japanese)]先月のニューヨークタイムズ紙で、M・ミラーというコラムニストによる「説得は死んだか」という論説 [1] を読んだ。ブログに政治問題について書くときに、私も彼と同じ思いを抱き、情報の氾濫が、むしろ、異なった意見を注意深く比較するという操作を人びとから奪っているのではないかと危惧する。ミラーは、しかしながら、K・ポラックの著書 "The Threatening Storm" [2] には説得されたという。私は、この点では、ミラーに説得されはしない。ポラックのこの本は、アメリカのイラク攻撃を支持しており、私は、戦争にはどのような理由でも賛成できないからである。――説得の成功確率がたとえ小さくても、われわれは、良心の嵐がゆっくりと、しかし堅実に、世界をよい方向へ変えて行くことを期待して、自分の真摯な意見を述べ続けるべきだろう。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

  1. M. Miller, "Is Persuasion Dead?" New York Times (June 4, 2005).
  2. K. Pollack, The Threatening Storm: The Case for Invading Iraq (Random House, 2002).

オクラ(写真)/ 無意味と無駄と不必要を除いた生活



 昨年、わが家の植木鉢の一つに、偶然オクラが芽を出し、いくつかの実を賞味することが出来た。今年は、それに味をしめて、何本かを種から育てている。朝、薄黄色の花が咲き、アサガオと同様に、昼にはしぼんでしまう。別名は陸蓮根(おかれんこん)。なるほどと思う名だ(2005年7月17日撮影)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続)1952年10月9日(木)曇りのち晴れ

 汽車の中では、「デカメロン」の著者の名をあだ名に持ち、よくしゃべるおどけた3年生が、彼の持ってきた「私は誰でしょう」と「話の泉」の問題集から、アナウンサーぶりよろしく問題を読み上げて、Jack とぼくを少しばかり楽しませてくれた。旅館へ入ってからすぐ散歩に出たが、始めからあやしかった旅館の下駄の緒が切れてしまい、HT 君が手ぬぐいを裂いてくれたので恐縮した。
 午後 TJ 君と Jack とぼくは傘を持って貸ボートに乗り込み、苔色の水を四つの櫂でかき分けながら、湖上を散策した。TJ 君はボートの進路と櫂の動かし方を指導し、Jack はもっぱら力漕し、ぼくは時計の長針が一回転の何分の一したか、あとどれだけで一回転になるか、を刻々報じる一方、水上を走る愉快さと、その愉快さに不釣り合いな、曇っていてときどき小雨を落とす空の色と、Jack の櫂がはね上げるしぶきの香りとを楽しんだ。

 こうした昨日の旅行の終り頃になって、無意味と無駄と不必要の完全に除去された生活は、どうすれば実現できるか、と考えた [1]。ここに並べた三つは、似た事柄だが、少しずつ異なっているように思う。すなわち、「無意味」は理に合うかどうかを基準とし、「無駄」はある目的達成への距離やそのための努力の能率を基準とし、「不必要」は簡潔な円満性を基準とするものだろう。

 SN 君とTKS 君が書き、ぼくがその文章のぎこちないところを直して掲載した「菫台時報」第15号の夏休み実態調査の記事がほどんどそっくり北国新聞の4面に取り上げられている!

 引用時の注

  1. いまは、そのような生活がよいとは考えていない。当時は、勉強好きの私といえども、大学受験がいくらかのプレッシャーになっていて、こういうことを考えたのだろう。

2005年7月18日月曜日

ポンペイの遺跡(写真)/ 高校新聞の私的採点



ポンペイの遺跡の公共広場(フォーロ)(2003年5月14日撮影)。

高校新聞の私的採点

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月9日(木)曇りのち晴れ

 帽子をまっすぐに被った旗艦(大将といったかも知れない)が一人いて、彼は帽子を横向きに被った駆逐艦を捕獲でき、駆逐艦は帽子を後ろ向きに被った潜水艦を捕獲でき、潜水艦は敵の旗艦を沈め得る(捕獲された船は敵陣につながれ、見方の旗艦が助けに来るのを待つ。旗艦が沈んだ方が負け)というルールで二組に分かれて行う遊びが、戦争中にあった。その遊戯で自らが一軍の勝敗の鍵を握る旗艦になったときや、あるいは、騎馬戦で馬上の人になったときに感じる感じを、何かのことでそのことを統率しなければならない立場にある者は抱くだろう。そして、その感じは、自信と責任感を含んだものでなければならない。

 コンクール参加の県下各高校の新聞15紙が集まり、各一部を IT 先生から借りて来た。新聞名とぼくの私的採点結果(10点満点)をここに記しておく。[1]

 1 (1)  「いずみの原」27~29号(石川県立金沢泉丘高等学校)9.7
 2 (2)  「金大附高新聞」6~8号(金大教育学部附属高校新聞委員会)9.4
 3      「二水新聞」18~21号(石川県立金沢二水高校新聞班)8.4
 4~6   [略]
 7      「菫台時報」14、15号(石川県立金沢菫台高校生徒会)7.8
 8      [略]
 9 (佳作)「北泉新聞」25、26号(金沢市立工業高校新聞班)7.5
10 (2)  「小松高校新聞」13、14号(石川県立小松高校生徒会新聞局)6.9
11      [略]
12 (佳作)「羽松ケ丘」18、19号(石川県立羽咋高校)4.8
13~15  [略(15位の得点は4.0)]

 急いで採点したので、いくらか直感的になっているだろうが、一応見てくれ給え。平均点が同じ場合は、提出部数によって順位に差をつけた。編集方針を斟酌しないで、「感じが悪い」というぼくの主観で点を下げたものもあったかも知れない。「二水新聞」の点は辛過ぎたようだ。H・I さんが「C活」(君が「クラ活」と書いたものに対して、ぼくが使ってみた表現が、ちゃんと見出しに使われていたので驚いた)の現状について述べた感想が8号に掲載されている「金大附高新聞」は、最も新聞らしい感じがするとともに、垢抜けもしていたが、他方で欠点も目立ち、採点の結果は2位になった。

 引用時の注

  1. 数字は私の採点順位。朱書は、後日発表されたコンクールの結果。号数の後の括弧書きは、新聞に記載の発行団体名。採点は各号に対して、編集と内容について行って平均し、日記にはその詳細と、備考欄にコメントも記していたが、ここには平均点のみ引用する。1位と2位の一つを的中させた私の採点では中程度以下だった新聞が、コンクールでは、もう一つの2位や佳作に選ばれているのは、普通高校以外の高校や、金沢市以外の文化的辺境にある高校の努力をたたえる意味もあったであろう。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/18/2005
 Ted さんの書いている遊びは水雷艦長=母艦水雷(ここに説明がありました)というのだと思います。 私の小学時代も高学年になると男の子はみんなしていましたね。ところが中学へ入るともうまったく見かけませんでした。私の中学入学はS32年ですが、ちょうどそういう端境期だったのかもしれませんね。

Ted 07/18/2005
 敗戦後もこの遊びが続いていましたか。私は大連で戦争中にこの遊びをしましたが、引き揚げ後の金沢では、全く見かけませんでした。ご紹介のウェブページは、87歳の方が作っておられるようで、感心しました。(後日の注:2011年12月1日現在、そのウェブサイトは「94才のホームページ」の名に変って、なお健在です。)

2005年7月17日日曜日

私の持っている最も古い写真 (The Oldest Photo I Have)



[Read in English.]

 上掲のイメージは、私の持っている最も古い写真をコピーしたものである。1908(明治41)年春、写っている子どもたちのうちの3人が新しい学校へ入った記念に撮影し、欧州へ教育事情視察のための長期出張をしていた彼らの父親(私の祖父)に送ったものである。

 前列左から、簾(私の祖母、39歳)、千代子(私の母、6歳、金沢女子師範附属小学校入学)、文子(私の伯母、8歳、同小学校3年生)。後列左から、紀文(私の伯父、13歳、金沢第二中学校入学)、幸(私の伯母、15歳、金沢女子師範学校入学)。私は幸伯母には会ったことがない。彼女は若いうちに死亡したからである。母は彼女のことをオキネサン(「大きい姉さん」の意)と呼んでいた。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/18/2005
 およそ100年前のご親族の写真をお持ちでしたか。この記事からしますと、教員をされていた伯母さまというのは文子さんにあたる訳ですね。

Ted 07/18/2005
 私が高校時代に漢文和訳を教えてもらったのが文子伯母です。引揚げ後、盲学校で教員をしていたのは、母のほうです。この頃の祖父の写真もありますが、この写真と同程度に古いものでしょうね。それに次いで古いのは、父母の結婚時の写真です。いずれ、それらもご紹介しましょう。

midori 07/10/2006
 私の家にも古い写真があります。祖父の兄弟がロスに移住をしています。私は10年前からラスベガスに住んでおります。何だか、とめどもない事を書いてしまってすみません。
ロスの親戚とは行き来がなく、ここで、彼らは遠縁の人たち、ましては、お互いに血縁以外に何も共通点がありません。私は、幸運にも仕事と家族に恵まれ、生きています。

Ted 07/10/2006
 midoriさん、初めまして。コメント、ありがとうございます。ラスベガスに10年もお住まいですか。私は子どもの頃、2年半ほどですが、中国・大連(当時は日本の租借地)の、この写真に写っている祖母の家に移り住み、日本の敗戦後、引揚げの苦労を味わいましたので、子どもたちにはそういう苦労をさせたくないと思い、就職・結婚後はここ大阪・堺市にへばりついて生きてきました。midoriさんも関西にお住まいだったことがあるのですか。ブログに「なんやねん!」と書いておられますね。

midori 07/11/2006
 いえ、住んだ事はないのですが、山口県出身なもので、幼いころから吉本新喜劇で育ちました…といっても TV を見ていました。今だに、関西の芸人さんが大好きです。

Ted 07/11/2006
 山口県ですか。下関や秋吉台は新婚旅行で訪れました。萩、津和野も後に旅行しましたが、静かでよいところですね。

キキョウ(写真)/ 授業のない時間のつれづれなる気持



先にも紹介したわが家のプランターに咲く紫色の
キキョウの花を再撮影。2005年7月15日。

授業のない時間のつれづれなる気持

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月6日(月)曇り

 狭い紙面を少しの冗長な記事で埋めてしまったものがこれだ。落選の自信満々で応募することほど馬鹿げたことはない。各校の新聞が本校の IT 先生のところへ集まって来るのに、その先生を顧問とする当校の新聞部が参加しないわけにはいかないから出しておくだけだ。4月以降に発行したものを全部出さなければならないのだが、2部しかない。「いずみの原」や「金大附高新聞」などは、ブランケット版で3部出している。
 生徒会会計の TKN 君には、廊下ですれ違ったときに、「これ、お願いします」と、「菫台時報 1200部 4000.―」と書き込まれた紙を渡し、会長には、放課後呼びだされて、一つの質問と一つの注意を受け、「すみません」といって、やっと、取りかかったときから自分で満足の出来なかった仕事にピリオドを打った。予算からいえば、あと、タブロイド版4ページを今学期と来学期に各1枚出し、その間に原稿用紙を印刷して貰えばきっちりということになる。それよりも問題になるのは、誰かが編集長になってくれることだ。

 国語の時間は、先生がどこかへ行かれたらしく、物理の YM 先生が代わりに来られたが、その時間の課題がちゃんと用意されていた。「授業のない時間のつれづれなる気持を万葉調で表した和歌を三首以上作れ」というものである。万葉調といえば、五七調で重厚で直感的、単純率直なものということになるが、言葉のおもちゃのようなものしか作れなかった。もっと高尚で、新しい感覚のものを作らなければ、と思ったときに時間が来てしまった。

2005年7月16日土曜日

ヒマワリ(写真)/ 弁解


ヒマワリ

 九州南部に梅雨明けが宣言された昨16日、大阪方面も梅雨の終ったような晴天の、暑い一日だった。ウォーキングには、ヒマワリの花を撮れることを期待してカメラを持参した。団地の庭に背高く延びた茎に花をつけている一群をみつけ、青空をバックにした姿をとらえることが出来た(写真は堺市八田西団地で)。ヒマワリといえば、戦争の悲劇を描いたソフィア・ローレン主演の映画 "I Girasoli" を思い出す。

弁解

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月5日()晴れ

 エマーソンの言葉を好きだったり嫌いだったりするのではない。HM 君がいおうとしたことは全然耳を貸す値がしない、というつもりであのように書いたのではなかった。けれども、「頭ごなしに捨て」ようとしたのは、確かに早まっていた。彼の話を聞いた上で、「それは決して君の生涯の最も華やかなりし時とはいえないだろう、というのは、君の未来に控えている春秋は、それよりもはるかに大きな成果をもたらす可能性があるのだから」といってやることができれば、理想的だったのだ。いや、理想的である、のだ。まだ、その機会を失ってしまったのではないから。

 君の絵をぼくに見せなかった件に関して、「自己の体面に対する恥」という言葉を君は書いているが、ぼくがいままでに何度も、一度書いたことを消したのは、それとは少し違っている、と自分では思っている。もちろん、君とぼくは別人だから、二人の間に「自己の体面」に関する感情が入り込むことは否めない。否めないといっても、それが生じた時には、放置してよいと思うのではないが、ぼくの場合、それ以外の理由が主となって消すという行為をしたことをいっておきたい。ぼくは、消すたびに、それを君の目に入らないようにすると同時に、自分自身の心の中からも消して来た。その作業は、誤りに対する嫌悪から出たものであり、誤りの訂正であったつもりだ。[1]

(Sam)

 プログラム印刷のことについて、はるばる YM 君が出て来た。彼の父は山越印刷の植字工なので、彼に頼んであったからである。打ち合わせをするために、二人で SM 君の家を尋ねる。

 自転車の状態は帰途も思わしくなかった。AR 君のいった通り、寿命が来ているのだろう。とすれば、短命なものだ。

 八時三十分はダイヤルをどちらへ回すかね
[2]。クイズ・バラエティの賞品は素晴らしいじゃないか。* 難問というのはそんなにないが、選択肢に迷答が多くて、解答者の頭を混乱させるから、クイズの傾向としては悪くない。土曜日の午後から会場へ映画を観に行って、タナボタを待ち構えようか。

* (Tedの欄外注)聞いているだけでは、賞品の素晴らしさに何の値打ちもないから、その番組のある放送の周波数に470を加えたところのを聞く。

 引用時の注

  1. この日に日記帳を交換し、先の交換以後に Sam が書いたことについて、ここにある二つの弁解しか書かなかったとは不思議である。Sam が健診にひっかかって心配な日々を過ごし、精密検査を受けたことを書いていたにもかかわらず(結果は治癒していたという幸運なものだったが)、それについて私が一言も書いていないとは、彼の健康を信じていたにもせよ、薄情ではなかったか。

  2. 北陸文化放送とNHKのどちらの番組を聞くか、の意。


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

かわせみ 07/16/2005
 わが家の近くの農園でもひまわりが咲いていますが、そこのひまわりの葉っぱは巨大で、幹も太く、夏の勢いを感じることができます。

Ted 07/16/2005
 そのヒマワリの写真を、かわせみさんのブログに掲載していただければ幸いです。

テディ 07/17/2005
 当時の北陸文化放送の周波数を調べてみると700 kc (khz) でした。ということはNHK 金沢は1170 kc だったのですね…。クイズ・バラエティの「素晴らしい賞品」とは何だったのでしょうか?

Ted 07/17/2005
 当時の NHK 金沢を覚えていませんが、そういうことになりますね。いまは 1224 kHz ですか。クイズ・バラエティの賞品は、関心がなかったので知りません。いま思えばそれほどのものでなくても、当時は素晴らしいと思ったでしょう。

四方館 07/17/2005
 大阪も今週あたりには梅雨明け宣言となるのでしょうネ。子ども時代には、ひまわりは都会のそこらあたりいくらでも見られましたが…。

Ted 07/17/2005
 庭もない状態で密集して建設される建て売り住宅の増加には疑問を禁じえません。

2005年7月15日金曜日

カステル・デ・ローヴォ(写真)/ わずかながら進歩



ナポリのサンタルチア港を睥睨(へいげい)している
カステル・デ・ローヴォ(卵城)。2003年5月13日撮影。

 [2011年11月28日、記事復元時の追記]森鴎外訳『アンデルセン 即興詩人』(ワイド版 岩波文庫, 1991)の本文最初のページ(p. 9)に、"否々、わが「アムボンポアン」の「カステロ・デ・ロヲオ」のごとくならんは、堪へがたかるべし" とある。そして、巻末の注に、"カステロ・デ・ロヲオはカステル・デ・ローヴォ(卵城)で、次ページの()内訳注に「卵もて製したる菓子」とあるのは鴎外の誤り" というような説明がある。それにしても、本文最初のページ上記引用部分の意味が分からない。

終り。まずい。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月3日(金)雨、4日(土)降ったり晴れたり

 終り。まずい。非能率的に、目を広い範囲に向けないで活動したからだ。[1]

(Sam)

1952年10月4日(土)雨

 開校記念日のプログラム作成のため、特に四限目を出席扱いにして貰って、案を練った。僅少な予算をやりくりして、一応はまとまったものが出来そうである。今年は男子ばかりや、女子ばかりのホームがあり、男女生徒の人数の配分が不均等なので、運動会のチームを作るのがなかなか難しい。

 速記の第二回練習試合が一時半から二十七H室である。外部からの参加校は菫台だけ。七人ばかりが雨の中をはるばる来てくれた。前回とほぼ同じ要領で行う。翻訳時間を若干短縮して、無駄を省くようにした。
 前回はノーミスの菫台 TK 君が、100と200にそれぞれミスをし、絶対自信があるといっていた FJ 君も翻訳のときに行を間違えたりして、150と200は完全でなかった。ぼくは125までノーミスを保ったが、150で4、200で69の誤・脱字をした。まだまだ練習が足りない。それでも、この前に比べてわずかながら進歩が認められる。
 YM 君が秋山の珍味
[2] を持って来てくれた。昨日、彼の父が採って来たものだといった。豆腐を入れておつゆにするとよい、とアドバイスしてくれた。

 引用時の注

  1. 完成した『菫台時報』15号についての、編集長自身の反省である。

  2. マツタケだろうか。

2005年7月14日木曜日

幸福の科学 (Science of Happiness)

 【概要 (Abstract in Japanese)】これは新興宗教の話ではなく、幸福に関する心理学的研究を一般読者に伝える3冊の本 [1-3] に対してネイチャー誌に掲載された批評 [4] の紹介と、それを読んでの感想である。その書評では、まずそれらの3冊の共通点が述べられている。それによって、この3冊のうちのどれを選んでも何を学べるかを知ることが出来る。評者は次いで3冊の相違点を述べているが、多くの読者にとっては、彼が最後に3冊中から1冊選ぶとすれば Nettle の著書 [3] だと述べていることに注目すれば十分だろう(書評はしばしば最終段落から読むのがよい)。個人の幸福感、すなわち主観的幸福、は心理学の問題であろうが、テロ事件が多発する現在、各人の客観的幸福、すなわち人間全体の幸福、の研究も重要と思われる。それは、社会学、政治学、人類学をも含む多分野の協力で取り組まれなければならない問題であろう。
 【Read the main text in English.

  1. R. Layard, "Happiness: Lessons from a New Science" (Allen Lane/Penguin, 2005).
  2. P. Martin, "Making Happy People: The Nature of Happiness and Its Origin in Childhood" (fourth Estate, 2005).
  3. D. Nettle, "Happiness: The Science behind Your Smile" (Oxford University Press, 2005).
  4. D. Evans, "A happy gathering," Nature Vol. 436, p. 26 (2005).

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/14/2005
 私はゆくゆくはこのテーマで論文が書けるようにならないといけないので、とりあえずの観点などを、ちょっと時間がかかるかもしれませんがトラックバックさせて頂いて私のブログでも書きますね。
 私自身の幸福観がかなり客観的な傾向をもつことも影響するのですが、happiness という語が内面の、割と狭い領域(feeling)の幸福であるように思われて、happy, happiness の語自体を私はあまり思い浮かべないんですね。幸福とは、容易にはそうと見極めがたい体験、生活感慨、生活状態をも包含するものだろうと思います。私が Ted さんとはまた違った観点で、生きるのが困難な環境にある人々の幸福形成への一助とならねばならない立場にあるため、そう考えるのでもあります。そういった意味から、objective な幸福の研究も重要であるとのお考えには私も大いに賛成です。Scientific research でも、このような観点に立つ調査項目群がまずは用意されて、そこから体系化がはかられるといいですよね。

Ted 07/14/2005
 Y さんのご研究に関連があるだろうと思っていました。最後のパラグラフで sociology と political science に社会福祉学もつけ加えたかったのですが、その英語表現に自信がなかったので割愛しました。思いつくのは science of social welfare という長いものですが、それでよいでしょうか。トラックバック記事を楽しみにしています。

Y 07/14/2005
 そうなんです。私も、この記事を読みながら改めて思いましたが、すぐ手元にある『社会福祉用語辞典』でも「社会福祉学」の正式英訳は載っていないですね。まだ学問の歴史が浅く、学問的分類としては、文学研究科の中の社会学 sociology、その中に位置づけられることが多いです。ただし、私が中心としているような人間学 anthropology に傾く力も大きいので、science としてよりは、study of social welfare といった辺りかな、と、この分野の研究内容をみていても思いました。

Ted 07/15/2005
 大阪府大のパンフレットでは、社会福祉学科は College of Social Welfare と、study も science もつかない形になっていました。私の上の記事には、anthropology を追加しておきましょう。

Y 07/15/2005
 そうだと思います。学会名称の英語訳も、Social Welfare, Human Well-being といった表現で、学として形成されようとも、それ自体福祉的活動に組み込まれる、という意義が第一である分野かと。英文で書いて頂く場合は、study of は削ったほうがいいですしね。
 それから、anthropology は従来、「人類学」として発展してきましたが、昨今では「人間学」(○○人間学、人間○○学)としてより広範になり、学生に学びやすいような一般化もしている(学部学科、講義名称となっている)ようです。
 「福祉」も「人間」も、「これのみ」を学の名称として掲げるのは恐れ多い、自分は努力はしてもそれがいえるほどの知見は持ち得ない、という意識があるのは、私だけではないかもしれません、いつか同分野の方にきいてみたいです。
 ◆それと、Ted さんの個人的なところでは、「幸福」の範疇に、意外な英単語は入りますか? 私ですと、regard なども幸福の上位に来ているのですが。

Ted 07/15/2005
 直前のコメントをいただく前に、英文には "anthropology" を、和文には、人間学を念頭におきながらも、「人類学」を追加しましたが、ご意見と一致しましたね。
 ◆印の件では、competent、good command、deserve などでしょうか。投稿論文に対する査読報告書に、この論文の著者は competent physicist だ、good command of English を持っている、などと書いてあると嬉しかったし、教授になったことを外国の友人たちに知らせたとき、"You deserve it." といってくれたのも嬉しかったというようなことで。Deserve は、罰を受けたときなど、悪い意味でも使われ得ますが。

Y 07/15/2005
 度々の追加になってしまいますが、私の regard というので割と変わっているだろうと思うのは、私自身が regard の対象になるのではなく、私がなんであれ敬意を払う人や事柄があることが幸福だという価値観なんです。しかも respect よりも regard の語を選びましたが、「顧慮」の意を含む点でどちらも似ていますね。
 Ted さんの挙げてくださった単語は、私も共感できますね。多分、それに値するかどうかをご自分で検証しておられる姿勢があると思いますから。

Ted 07/15/2005
 ああ、そうでしたか。regard という単語自体は他への働きかけを意味すると思いながらも、Y さん自身が regard を受けるのが幸福なのかと思っていました。そういわれれば、私が湯川博士やアインシュタインの業績、人柄などについて学び知ることにも、幸福感がありますね。

ヴェスヴィオ山:その2(写真)/ 特別な気持で拍手



ナポリで宿泊したホテル、サンタルチア(左手前)の近くから
ヴェスヴィオ山を望む。2003年5月13日撮影。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月2日(木)晴れ

 音楽・演劇会。番組と番組の間(幕間と書きたいが、実際に幕が閉じたのは、午前と午後の一度ずつしかなかった)が長くて、退屈した。また、そのたびに聞かされた「女学生」の曲にも聞き飽きた。しかし、内村直也作の「跫音」、菊池寛作の「父帰る」をそれぞれ演じた放文研委と演劇クラブは、面白い演技を見せてくれた。「跫音」の終り近くで、手紙を持ってくる男の、むやみに長く続く足音と、玄関へ彼が入ってくるときの悠長さと、重夫の母がその男を帰って来たわが子だと思い込む場面には、幻想的な感じがあったが、原作もそうなのだろうか。
 「父帰る」で、兄の賢一郎を演じた1年生の MU 君は、毅然とした、しかも最後には父に対して肉親の愛情を抱くことの出来た、役の性格をよく表現していた。NW 君の、父・宗太郎の演技も、いつもながら巧みだった。午前にあった飛び入りの I・S 先生の尺八は、長い前置きと単調な音とで、われわれの期待に背いたばかりでなく、われわれを倦ませるものだった。
 「帰れソレントへ」「さらばナポリよ」…。彼女の母がぼくの家へ来て母に話す彼女の生活ぶりから、なぜか、ぼくが「夏空に輝く星」の中に作りだした女主人公の歌を歌っている場面を思い出させることのある幼友だち・NKさん(1年生) [1] のソプラノ独唱には、特別な気持で拍手を送った。

(Sam)

1952年10月2日(木)晴れ、3日(金)曇り

 あと十日間ばかりしかないので、プログラムの作成におおわらわである。各部との連絡交渉や、外部団体との折衝など、なかなかである。だが、今度は三年生の SM 君が中心になってやってくれるので、責任の方は大分軽い。毎日暗くなってから帰る。


 引用時の注

  1. ここに書いてあることとは逆に、NK さんをモデルの一部に取り入れて、女主人公の歌を歌っている場面を書いたのではなかったか。少なくとも、最近はそう思っていた。しかし、ここに書いてあることは正しく、歌を歌っている場面のモデルは、先にわが校のアセンブリーに招かれた歌手だった。その歌手もイタリア民謡を歌った。私は、小学校3年の途中まで住んだ七尾市で、NK さんと近所同士だった。彼女は後に、彼女と同期のしっかりした男性、OZ 君と結婚した。


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/14/2005
 この頃、まだ文化祭という呼称に定着していなかったのですネ。内村直也、菊池寛と懐かしい名前が並びました。記憶違いでなければ、内村直也は英米文学の著名な翻訳者菅原卓の弟さんで、彼自身も戯曲の翻訳、劇作やシナリオなど多岐に活躍しているのですが、ググってみても残念ながら兄弟関係は確認できませんでした。意外なことに、「雪の降る町を」の作詞家でもあったとは、思いもよりませんでした。

Ted 07/14/2005
 あるウェブ・ページ(後日の注:リンクを貼っていたが、その後リンク切れとなった)によれば、「雪の降る町を」は、「昭和28年2月のラジオ歌謡と言われているが、実は、その前年、27年初めの連続放送劇 "えり子と共に" の挿入歌である。時間合わせで1番だけが急遽作られたが、放送後、反響が強く、高英男のうたで2番・3番も追加された」そうです。私は、この日記の翌年に当たる昭和28年のラジオ歌謡で親しんだと思います。私にとって、受験勉強に取り組んでいた冬が思い出されて懐かしい歌であるとともに、最も好きな日本の歌の一つです。いずれ高校時代の日記に出てくるかも知れません。

2005年7月13日水曜日

ヴェスヴィオ山(写真)/ 『こゝろ』の感想

ナポリ湾岸の道路から見たヴェスヴィオ山(2003年5月13日撮影)。

『こゝろ』の感想

高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月1日(水)晴れ

 開校記念式。校歌を印刷した紙が配付される。これは『菫台時報』にとって邪魔物の他の何物でもなかった。そう感じるならば、新聞をきょう発行するように努力すべきだったが、それが出来なかったため、校歌の印刷物に何かケチをつけたいという、卑屈さと排他性の混合物のような気持が起こって、隣に腰かけていた Octo に、「新旧仮名遣いがまじってるな」といってみた。歌詞だけを漢字交じりで書いたところには、新仮名遣いで書かれたものとすれば四つ、旧仮名遣いで書かれたものとすれば三つの間違いがあり、楽譜に書き込んである仮名の歌詞には、新としても旧としても八つにおよぶ誤りがある。ぼくの相変わらずの誤字発見趣味を、Octo はどう思っただろう。
 校歌は、真理の探求、知性を携えての道義の道のまい進、理想の保持、の三つを謳っている。これらは、決まり文句のようではあるが、われわれが根本的に必要とするものばかりだ。
 式に続く記念講演は、前号の「門をたゝく」で KN 君が訪問した明星学苑創立者・北陸新聞社社長の赤井米吉氏の「恐れなき生活」と題するものだった。氏は、「実力を養い、技術を身につけ、確固たる信念で前進せよ」と叫んで結ばれた。

 罪もしくは自分で罪だと感じたことの遂行の後にやって来た呵責に追いつめられて、「先生」は自殺した。混乱の中にあって人の心にまず生ずるのは、利己主義と猜疑と欺瞞であり、その後に消極的な形においてではあるが、必ず襲って来て心をじりじりとむしばむものが後悔であり、これらが多くの人間に起こりがちな、悪心と良心のまずい葛藤の正体である、ということが表現されているように思う。――読後感というほどにははならないが、漱石の『こゝろ』を読み終ったので、これだけ書いておく。

(Sam)

 午後の授業が終るとすぐ校門を出るつもりだったが、そういうわけにもいかず、鳴和病院に着いたのは三時を少し過ぎた頃だった。血沈を調べ、それからレントゲン撮影をする。その後で診断を受けた。
 「健康」という判定を得たが、濃厚感染なのだという。相当やられているが、ごく最近になって治った形跡が見えるということである。体の抵抗力が強かったため、大事に至らなかったのだという。誰か重い患者のが感染したのだろうとのことだった。
 とにかく、もやもやは晴れた。病院を出たとき、ほんとうに空気がうまいと思った。

2005年7月12日火曜日

唯一の男性鑑賞者だった! (I was the only male visitor!)



Read in English.

 昨日(月曜日)、この辺りの水道管移設工事のため、午後には断水が予定されていた。妻と私は、そういう日に家にいるのは面白くないと考え、長女と一緒に、京都駅ビル内の美術館「えき」KYOTO で開催中の「世界のキルト作家100人展」を見に行った。キルトは長女の趣味なのである(ささやかな作品をウエブページでご覧になれる [1])。

 入場券(イメージ)の裏には、近年、日本のキルト、特に "和のキルト" は、世界のキルト界に大きな影響を与えている旨書かれている。会場には、日本の代表的作家75名の「日本の美」をテーマにした新作と、海外からの招待作家25名の「日本のイメージ」をテーマにした作品が展示されており、大きさはすべて、絵でいえば100号ないし200号あるいはそれ以上かと思われる。精妙な技術に感心させられるとともに、迫力も感じられる。私には、「桜曼荼羅」(一部分が入場券に示されている)、「万華鏡」、「無」が印象的だった。われわれが会場にいた間、多数の女性来場者があったが、男性は私一人だった!

 帰宅後、水道工事は雨のため、水曜日に延期になったことを知った。今度はどこへ行こうか。

  1. Patchwork, Web page "Apricot Jam" (in Japanese).

カプリ島の街路(写真)/ 禁止令が出た



イタリア、カプリ島の街路。2003年5月13日撮影。
(前回の写真と掲載順が逆になった。)

禁止令が出た

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月30日(火)晴れ

 理想的なのと実際的なのと精神的なのと肉体的なのと、それらが合一しなければ、本当のものではあるまい。そして、それは、希求すべきときに希求すべきものの一つであるのみである。

 新聞クラブの1年生で逸山氏 [1] の子息である SM 君が、昨日、校歌を練習中の合唱クラブ員たちの写真を撮ってくれたが、2枚とも失敗だったそうだ。放課後、「テナーのうまい人」たちが練習しているところへ行って、また撮らせて貰った。すべては、あと4日のうちに。

(Sam)

1952年9月30日(火)曇り

 風邪を引いたようだ。しかし、疲労は感じない。演劇部の連中に感謝された。

 禁止令が出た
[2]。「学校は学問をするところである。娯楽の場でない。たとえ、休憩時であり、放課後であっても同じである」と。

 引用時の注

  1. 金沢生まれの写真家、島田逸山(しまだいつざん、本名島田憲吉、1897–1959)。俳句にも造詣が深く、俳句誌『沢の光』を主宰した。顕彰碑が金沢市・卯辰山にある。(以上、ウェブサイト「卯辰山のいしぶみ(碑)」による。)

  2. 校内での将棋に対して、だろうか。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/12/2005
 面白い日記ですね。Ted さんの一文目、理想的・実際的・精神的・肉体的と、当時のTed さんが生きる領域をよく概念化されましたね。現代の学問的な文化論でもこうだと思います。私の立場は、精神的なものと肉体的なものとを一元的に考える点のみ、多少特殊なのですが。「それらが合一しなければ」、しかし、なかなか合一はしませんね。現実の生は整合性と異なる原理で動くことが多いですから。「本当のものではあるまい」の「本当のもの」とは、「理想的なもの」であると同時に「わたし本来のもの」という意味も含まれているかと読み取れました。
 二文目は、「希求すべきときに希求すべきものの一つであるに過ぎない」という意味ですよね。私も、希求精神があっても、「希求すべき」と、「~べき」でたえず考え、動いている人間です。また「○○はあくまで~の一つである」と、自分の生き方や考えかたが幅広い視野の中の可能で必然性のあるひとつである、という考え方が若い人にできるようになることは、とても重要なことだと思います。
 Sam さんのほうについて。私は学問と縁のなかった状態で、それが何かも知らずに大学に入り、学問の面白さを知りましたが、高校までの学校で学ぶことも、十分学問性がある内容は含まれていると思います。ですから学問という言葉をこのように日常的なものと感じられるような言葉は歓迎しますね。

Ted 07/12/2005
 私の日記の第1パラグラフは、あえて注を付けませんでしたが、「恋人にしたい女性」について書いたのでした。「ある面で惹かれる女生徒は何人かいるが、誰が私の恋人として望ましいかと考えると、みな四つの面の合一性に欠ける。しかし、恋人は、いまはまだ求めなくてもよいのだ」という意味です。いま書いたような形で、はっきり書くことを恥じる年頃だったので、抽象的に記したのです。

Y 07/12/2005
 そうでした、Ted さんは、具体的な何か、とくに恋愛について、理論的なまでに考えられることが多いですものね(今まで読ませていただいて)。けれども実際に、恋愛でものすごく人間について大事なことがわかることは多いと思います。文化論から除外される領域ではありえないでしょう。それから直接には書けないことを、比喩や抽象度を高めることで書かれる力も、Ted さんのひいでたところだと思います。

Ted 07/12/2005
 恐れ入ります。

2005年7月11日月曜日

ナポリ湾岸の通り(写真)/ 科学における125の疑問を分類 (Classifying 125 Questions in Science)



イタリア、ナポリ湾岸の通り。2003年5月13日撮影。

 【概要 (Abstract in Japanese)】先のブログ記事 [1] で、サイエンス誌の125周年記念号の特集 [2] にあった科学の25の大きな疑問を引用した。同特集には、これに続く100の疑問も掲げられており、それも紹介したいと思った。しかし、分量が多いので、合計125の疑問を分野別に分類してみた結果を、代わりに示すことにする。生物学、医学、生理学は境界が不明瞭なので、一つにまとめた。それにしても、これらの3分野の合計は、他のどの3分野の合計よりも断然多く、これらの分野が、現在から近い将来にわたって、最も忙しい分野であると考えてよいと思われる。ただし、これらの疑問は、生物系分野において特に人気のあるサイエンス誌の編集者や著者たちが選んだものであるから、数字自体は割り引いて考えなければならないだろう。特集の序文 [3] には、ジェームズ・C・マクスウェルの味わい深い次の言葉が、適切にも引用されている。「完全に意識的な無知は、科学のあらゆる真の発展の前奏曲である。」
 【Read the main text in English.

  1. "25 Big Questions in Science", Ted's Coffeehouse 2 (2005).

  2. "What don't we know?" Science Vol. 309, p. 75 (2005).

  3. T. Siegfried, "In praise of hard questions" Science Vol. 309, p. 75 (2005).

カプリ島の眺め(写真)/ 将来の希望



イタリアのカプリ島。カプリ風ラビオリを昼食にとったレストランからの眺め。
2003年5月13日撮影。

将来の希望

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年9月29日(月)雨

 H は先生の希望で「将来の希望」という題で作文を書くことになった。将来の希望というのは、就職に限ったことではないと思ったから、「万物の命を大切にしたい云々。恒久の平和を願い云々。真の生活を営みたい云々」などと記してみた。抽象的、理想的だと思った。「1. 個人商店希望。2. 県外でもよい。3. 夜間大学に通学したい。4. 将来は豊かな生活がしたい。云々」に比べれば――。

 夜になってから Funny(ME 君)が大変な仕事を持って来た。「命ある限り」という演劇の脚本を明朝までに原紙に書いて欲しいという。やや小さめの字で書いて、原紙に六、七枚くらい書かなければならない。一枚書くのに一時間として、書き上げられるのは夜中の二時頃になる。Funny のことだし、見込まれたのならと引き受けたが、三時半までかかった。指がへなへなに疲れた。徹夜をしたのは生まれて以来を勘定しても、覚えているのは一昨々年の正月の親類の新年会に一度あるだけだ。

2005年7月10日日曜日

カプリ島の時計塔(写真)/ 笑いにはさまざまな種類が



イタリア、カプリ島の時計塔(2003年5月13日撮影)。

笑いにはさまざまな種類が

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年9月28日()晴れ

 きのう、きょうと、日記が映画観賞記になりそうだが、仕方がない。きょうは A と大和劇場へ行った。業務入場証を使用するので、どうしても午前中に劇場の中へ入る必要があり、昼食をとって行かなかったが、帰ったら三時を過ぎていた。
 「泣虫記者」は誇張した感じがある。が、次長が夢の中でいった「新聞記者の宿命的な使命」については、真に相づちをうってよい。新聞社会の断片を観察するには好適なものだった。エノケンとアチャコで笑わせる「トンチンカン捕物帖」は、探偵的ないしは悲劇的な要素を持っていたが、探偵映画としては不親切だし、物語には悲劇的なところがあるが、そればかりではない。要するに、物語を面白くするために謎をからませた娯楽映画ということになる。昨日から三本の映画を観て、笑いあるいは滑稽さには、さまざまな種類があることを改めて認識した。
 劇場内で、一人の美青年に会った。彼はぼくを認めて席を近づけて来て、「こんにちは」と挨拶した。どこかでの同級生らしいということだけが判ったが、誰だか見当がつかない。びっしょり汗をかいた。顔が紅くなった。彼は、「高中 [1] のとき、ぼくは M 君 [2] の前の前に座っていた」といったが、それでも思い出せなかった。彼はついに、HM だといった。Ted たちが訪問したが留守だった HM 君ではない。その当時は数箇所につぎのあたっているくたびれた国民服を着ていた彼だが、いまは調髪し、服装もさっぱりしている。高中の近くにある彼の勤務先が、きょうは休みなので、ここへ来たのだそうだ。明治キャラメルを二個、手のひらにのせてくれた。


 引用時の注

  1. 「たかちゅう」と読む。高岡町中学校の略。Sam は1年生の間、高中へ行っていたが、2年生になったとき、彼の住んでいた町は、私と同じ紫錦台中学の学区に変更になった。

  2. Sam のこと。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/11/2005
 Samさんの映画評は読みやすいですね。今の映画評論は、なるほどと納得するのですが、映画自体も映画評論も込み入っていて、Ted さんたちがこの頃観られた映画とはだいぶ違うかなと想像します。休息や軽い気分転換で観られる長さではなくなりましたしね。
 その次の美青年に会った話が私は興味深いです。Sam さんはこういう体験をそのまま表現されるので、正直な方ですね。私の周囲にも Sam さんのような魅力的な友人がいたらなあと思います。最後の文で「明治キャラメルを二個、…」と簡潔に心温まる出来事を書かれているのが上手いですね。

Ted 07/11/2005
 Sam は「顔が紅くなった」と、簡潔に書いていますが、私ならば、自分の顔色は見えないという理由で、「頬が熱くなる感じを経験した」などと書いたでしょう。私も「明治キャラメルを二個、…」という記述に感心しました。

2005年7月9日土曜日

キキョウ(紫)/ 1対0のまま9回裏2死


キキョウ(紫)

 写真は、わが家のプランターに咲いた紫のキキョウの花(金網塀の鉄枠の錆びているところが写っていて見苦しかったので、後日、2005年7月10日撮影のものと取り換えた)。

1対0のまま9回裏

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月27~29日(土~月)

 JOCK のシンフォニック・ジャズ:半ば夢のうちに。
 運動会:雨で後半はどろどろ。
 新聞部活動:てんやわんや。
 野球:1対0のまま、9回裏、2死走者なし。4番の上井、悠然とボックスへ入る。マウンド上の大根(おおね)、投げ下ろした右手の先とプレートを蹴った右足で、投球後にも彼独特の美しいフォームを見せながら、一球、二球と投球。カウント2–0。次の球、打った。たかーく上がった内野フライ、ショート取った! 試合終了! [1]

(Sam)

1952年9月27日(土)晴れ

 "Pinocchio" を YM 君と一緒に観賞に行った。われわれがすでに知っている物語とは全然別の角度から、漫画映画の特長をよく利用して、興味深く描いてある。あるときは、その美しさに魅了され、あるときは、そのおかしさにほほ笑み、そして最後に、信仰的な敬虔さを感じた。


 引用時の注

  1. 北信越高校野球大会石川県予選で、わが菫台高校が強豪・金沢桜丘高校に惜敗した場面と思われる(大根の投球フォームの描写から見て、これはラジオの実況放送の記録ではなく、試合を応援に行ってきた感想だろう)。菫台の上井一塁手と桜丘の大根投手は小学校時代からライバル同士で、大根はキツネ顔の美青年、上井は松井秀喜選手に似た豪快なタイプだった(上井も小学生時代は投手として活躍した。「非運の U 君」参照)。
     このあと、11月の日記に、両校が北信越大会の決勝戦で再度対戦したことが書いてある。その記録に照らせば、金沢泉丘高校が翌年春の選抜大会に出場した、と先の「引用時の注」に記したのは、翌夏の全国大会予選の記憶違いだったようだ。先日の小学校同級会で、この日記当時に菫台の三塁手だった KW 君も、「北信越大会」での彼自身の3失策がたたり、「泉丘に選抜出場をさらわれた」ようにいっていたようだったが…。もっとも、KW 君は自分の小学生時代のポジションがレフトだったことを覚えていなかったのだから、彼の記憶も当てにならない。
     (後日追記:私には、菫台高校が北信越大会で準優勝した記憶があり、その相手が桜丘だったのならば、桜丘が選抜大会に出場した記憶とも矛盾しない。)

2005年7月8日金曜日

科学・技術者を目指す女子高校生のための夏の学校

 さる7月6日の私のブログ「高校時代の写真」に載せた写真には、物理の授業のクラス20名のうち、女生徒は2名しかいなかった。これを日本物理学会に見られたかのように、昨7日付けで、同学会から、科学・技術者を目指す女子高校生のための夏の学校の案内メールが届いた。その趣旨に賛同し、多数の女子高校生の参加を期待して、ここにそのメールを転載する。

Thu, 07 Jul 2005
From: JPS Mail Admin
Subject: Summer school for high-school girls
To: members-all

日本物理学会 会員各位

 この度、物理学会では標記のように「女子高校生夏の学校」を開催することになりました。そこで、会員の皆様にご協力いただき、広く参加者を募りたいと思います。

[本復活版記事では、以下省略する。]


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/08/2005
 いいですね。大学や研究者の世界が高校生に開かれる企画が盛んになっているようですね。私の時代にも関心ある分野であれば、私も参加したかっただろうと思います。
 私など理工系技術者にはあこがれますが、物理の中にもいろいろな研究分野があるんだということを知ってもらうのは大事ですね。
 そのときそのときで目標をもって将来の道に進めるようになるとよいと思います。

Ted 07/08/2005
 今年は世界物理年ということもあって考えられた企画かも知れませんが、今後も続けて欲しいものです。

ポー 07/09/2005
 そういうのが私が高校生のときにあればよかったです。理系に進む女子は割と独立心も旺盛で男子の中でたった一人の女子学生だったとしてもあまり気にしなさそうな気もしますけどね…。

Ted 07/09/2005
 私の大学生時代、理学部同期2クラス100名のうち、女子学生は3名だけでした(物理、化学、生物学科へ1人ずつ進みましたから、それぞれの学科ではたった1人)。最近は私の出身大学でも、女子学生の比率はもっと増えていると思いますが。

キキョウ(白)/ ぼけている証拠だ


キキョウ

 写真は、わが家のプランターに咲いた白いキキョウの花(2005年7月6日撮影)。紫のキキョウも咲いており、明日掲載の予定。

ぼけている証拠だ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月26日(金)雨

 自尊心を投げ出してまでも冒険したくなる心を起こさせる生き物。

(Sam)

 一昨日先生のところへ行ったときに出た話の約束通り、英語の時間は Summer Exercises を調べることになっていたのだが、持参することを忘れたので、外出証明書を貰って、十分間の休み時間に家まで往復した。数分の遅刻となる。雨中もいとわず取りに行って来た値はあった。
 KN 先生の時間が休講になった。もし雨でないならば、四班とオープンゲームをすることになっていたのに、残念である。仕方がないから将棋で熱戦を展開して興じた。
 ぼけている証拠だ。学校に筆箱を忘れて来た。

2005年7月7日木曜日

科学における25の大きな疑問 (25 Big Questions in Science)



サイエンス誌125周年記念号表紙の一部

Read in English.

 アメリカで発行されているサイエンス誌が、この7月1日、125周年を迎えた。その記念号は、「われわれは何を知らないか」と題する特集 [1] を組み、来る四半世紀間に科学が直面する25の大きな疑問と、これに続く100の疑問を掲げて解説している(合計が記念の年数に等しい)。近い将来の科学の方向に関心のある方がたのために、「大きな疑問」のリストをここに引用する。私の専門外分野の疑問において、術語の訳に適切でないものがあれば、お許しを乞う。

  1. 宇宙の組成は何か
  2. 意識の生物学的基礎は何か
  3. ヒトはなぜ少数の遺伝子しか持たないか
  4. 遺伝の変動と個人の健康はどの程度関連しているか
  5. 物理学の法則は統一されるか
  6. ヒトの寿命はどれだけ延ばせるか
  7. 組織再生を制御するのは何か
  8. 皮膚細胞はどのようにして神経細胞になり得るか
  9. 単一の体細胞がどのようにして植物全体になり得るか
  10. 地球の内部はどのように動作しているか
  11. 宇宙に、生物のいる天体は他にもあるか
  12. 地球上の生命はどのようにして、どこから生じたか
  13. 何が生物種の多様性を決めるか
  14. どのような遺伝的変化がわれわれをヒトという特異な生物にしたか
  15. 記憶はどのようにして貯蔵され引きだされるか
  16. 協力の振舞いはどのようにして進化したか
  17. 生物学的データの集合から全体像はどのようにして現れるか
  18. 化学的自己集合はどこまで推し進められるか
  19. 在来型コンピュータの限界は何か
  20. 免疫反応を選択的に押さえることができるか
  21. 量子力学の不確定性と非局所性のもとになる深層原理はあるか
  22. 効果のあるHIVワクチンはできるか
  23. 温室効果で世界はどれほど暑くなるか
  24. 何が安い石油の代替となるか、そしてそれは、いつか
  25. マルサスの理論は間違いであり続けるか

 皆さんは、どの疑問が最も興味深いと思われるだろうか。私は、物理屋として、1、5、21に、人間として、2と6に、地球上に生きる一員として、10、11、23、25に興味を引かれる。これに続く100の疑問についても、できれば紹介したいのだが…。

  1. "What don't we know?" Science Vol. 309, p. 75 (2005).

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 07/07/2005
 私のベスト3は、1、12、2ですね。
 数日前「ディープインパクト」が彗星に無事?衝突しましたが、これによる調査結果に興味あります:「ディープインパクト最新情報「衝突の閃光」を捉えた」

Ted 07/07/2005
 私もディープインパクトの彗星への衝突による調査には興味があり、衝突のニュースと、何が分かる可能性があるかをブログに書きたかったのですが、折しもサイエンス誌125周年記念号が到着したので、そちらは天文関係のニュースにまかせることにしました。

Y 07/08/2005
 ヒトなどの生物学的基礎を問うものが多いですね。私の関心もその分野にありますが。
こうしてみると、遺伝学の成立が科学的疑問にこたえてきて、さらにより基礎的な、あるいは高次の疑問を喚起するという功績は大きいのだろうと思います。私の夫も元々は免疫遺伝学をやっていますので、遺伝学に強いというのは研究を生み出す手持ちの通路としては、うらやましいです。

Ted 07/08/2005
 遺伝子の解読など、生物学の方法も物理学に近づき、以前ならば物理学や天文学に引かれたような子どもたちの多くも、これからはどんどん生物学に向かうでしょう。

サフランモドキ / 病は気から


サフランモドキ

 写真はわが家の庭に咲いたサフランモドキの花。この植物は、花が咲くときに、葉がない。周囲に見えるのはサクラソウなど、別の草花の葉である。(2005年7月6日撮影。)

病は気から

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月25日(木)晴れ

 現象的には些細だが、精神的には、また、そのことの意味上の見地からは、ルソオが一少女を誣告したにも等しい罪。人間は、自分が完全に道徳的に立て掛けた純理の梯子の上を、一歩も踏み外すことなく歩んで行くことの出来ない動物であると決められているはずはないのだが……。

 祖父の葉書を投函に行っての帰り、実際の自分よりも好ましい形を描いて前方に延びている影に従って歩きながら、前編集長 FJ 君のところへ相談に行こうかと思った。影は体重がまだ50 kg に達していないことを思い出させた。あと1週間と2日ということも考えた。――混沌としている。

 「ビールの泡のような」という表現は、たしか、昨年の夏休み頃に Jack の心境を表現する言葉として、われわれのノートに書いたが、『こころ』の中にそのまま発見して驚いた。しかし、そこでは(ちょうど酒場の場面だ)気炎のの上がるさまを形容したものであり、ぼくが使ったのは、どうかすれば壊れてしまいそうな、浮き浮きした、しかも壊れたときには、なにか鼻の奥辺りをつーんと刺激するものを与えるような感情を形容したつもりだ。「数分間が数時間」というのも、あるいは先にどこかで読むか聞くかして潜在意識にあったものかも知れないが、通信帳を作る以前の君への葉書に書いた表現だった。それが、キティーのお産の場面でのレーヴィンの感じとして、そっくり同じ言葉でトルストイが使っていたから、びっくりした。

(Sam)

 S・H に一枚の紙を貰ったら、一日中気分がすぐれなかった。恐ろしいことだ。「病は気から。」実にその通りだ。つらつら考えて見るに、もしも、この状態になったのだとすれば、五月以降でなければならない、そうすれば、その間のぼくの仕事の荷重が大き過ぎたのだろうか。

2005年7月6日水曜日

高校時代の写真 (Physics Class in My Senior High School Days)



Read in English.

 いまブログに高校2年生のときの交換日記を連載中だが、これはその頃の写真の一つである。ある日、物理の先生がわれわれのレッスン・クラスを近くの変電所の見学に連れて行き、見学後、その場で撮って下さったもの。私は2列目の左から3人目にいる。交換日記によく登場する親友の Jack は前列中央、Twelve は後列右から3人目、SNN 君は後列右から5人目、きょう先に掲載した日記に登場している KT さんは2列目右端にいる。前列右端は変電所の所長かと思われる。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/06/2005
 Ted さんより体の小さそうな男子も結構いますね。女の子たちのほうが、当時独特のおかっぱ頭で印象的ですが、女子高校生の絶対数が少なかったのでしょうね。白黒も明瞭に写るので、今まで取っておかれるとパソコンに取り込むことができてよいですね。

ポー 07/06/2005
 私が卒業した高校は Ted さんとは逆に前身が高女だったので女子が多かったです。共学にした際には男子校(旧制中学)と半々にしたとのことなのですが、現在に至るまで女子生徒のほうが多いようです。

Ted 07/07/2005
 Y さんへ:私はやせてはいましたが、背はこの頃までは高い方でした。大学生時代になると、なぜかどんどん抜かれて、私は平均的な身長にとどまりました。
 この写真には物理の授業を一緒に受けたメンバーが写っているので、2年生で物理を選択した女生徒が極端に少なかったということです。学校全体としては、男女数は大差ありませんでした。

Ted 07/07/2005
 ポーさんへ:この写真に女生徒が少ない理由は、上記の Y さんへの返信をご覧下さい。学校全体としては、男女ほぼ半々でした。

ポー 07/07/2005
 なるほど。2年生で既に分かれていたのですね。物理は女子に人気がないんですか。
Youth
07/06/2005

Ted 07/07/2005
 そうです。物理は女子に人気がなかったのは確かです。ただし、文系・理系などにクラス分けされていたのではなく、生徒一人一人の時間割が異なっていて(何人かはほとんど同じ時間割ということはありますが)、課目ごとに離合集散するシステムになっていました。したがって、この写真と同じメンバーが揃うのは物理の時間だけ、ということです。

瑠奈 12/16/2005
 Ted さん、丸いめがねだったのですね。でも、その当時みんな丸いめがねですよね^^似合ってますよ (*^∇'*)v

Ted 12/16/2005 15:23:22
 そうです。当時は皆、丸い眼鏡。角張った眼鏡をかけるようになったのは、就職してからです。

21問題、分かりました?


わが家の植木鉢に咲いたハイビスカス。
先にも紹介したが、こんどは一度に三つも花が咲いたので、
再度写真を撮った(2005年6月28日)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月24日(水)晴れ

 生徒会長 OK 君が開校記念行事の運営に忙しくて、『菫台時報』の論説を書けないという。では、一体誰が書くか。
 秋の旅行が、また片山津か。片山津対和倉対宇奈月が12:10:10だったのに、そのまま決まってしまった。1/3にも満たないから、「上位の三つで決戦挙手を」といいたかったが、一人で意気込んでも仕方がないから止めた。これを決定した後、「いままでスポーツと自由ばかりでしたから、きょうは先生にお話をお願いします」とホームルーム委員のHT 君が一人で決めて、初めて HH らしい HH を持った。NW 君が先生がおられた頃の中国の話を要求したので、MY 先生はその話をされた。話は、中国の国際都市における英人や仏人の態度のことから、日本人がいかに敏活でなく、合理的な生活をしていないかにおよび、先生の好んで用いられる「わしに言わしゃ」という言葉で終った。

 宏子が「21問題、分かりました?」とわれわれのそばへ来ていった。――と書けば、君は「夏空に輝く星」の登場人物がなぜこんなところに出て来るのかと不思議がるに違いない。ちょっと身近にいない名前だからと思って使った名前を実際に持っている人物が、意外に近くにいるとは、あれを書いているときには気づかなかった。オウムを肩に乗せた『宝島』の登場人物シルバーが持っている器具をつねに持って歩かなければならない KT さんがこういう名前だ(漢字は異なるかも知れないが)。[1]
 KT さん以外で物理を取っているただ一人の女生徒は、篭球クラブへ入っていて、おうような性格の、関西弁で話す人物(KZ 君が以前、大津から来たからだと教えてくれた)で、妙に低い声での英語の朗読は巧みだが、物理のプリントの難問題にしがみついて解こうとするようなところは見られない。だから、KT さんが、われわれがその問題を前にして話し合っているところへ来て尋ねるのも不思議ではない(以前にも同様のことを書いたようだ)。
 KT さんは奇麗な言葉遣いをしているらしいが、声が小さくて、Jack に聞かせて貰った携帯用ラジオを聞くように、少し耳を傾けなければならない [2]。Jack は彼女の問いに応じて21問題を解きかけた。彼は独り合点して式を書き続けていたので、ぼくが、どうしてそうなるのかと尋ね、「そんなのでは駄目だろう」と始めからやって見せたが、結局たどり着いたところは、Jack が導いたのと同じ形の式だった。どうしてもプリントの問題の後にあるような答にならない。

(Sam)

 学校へ行く前に一本の柱を四分する仕事をした。直径は五寸ぐらいだろう。ノコギリを三百五十回往復させて、やっと二つの新しい面を作ることが出来た。
 体操は残りの班とゲームをやった。ボールはゴムのもので、打つと変形してとても処理しにくくなって困った。先の二試合には勝っているので、こんども勝たなければ、と勝つことばかりに気をとられて硬くなり、凡打や凡失であたらチャンスを逸して六A対四で惜敗した。
 創立記念行事の立案は遅々として進まず、はなはだ心細いものがある。


 引用時の注

  1. 漢字は異なっていた。KT さんの父君は金沢大学の化学の教授だった。盲学校の教員をしていた私の母が、点字を打った紙を生徒が何度も手で読むと字がつぶれてくるのを防止するため、紙を硬化させる薬品を KT 教授に教えて貰いに行ったことがある。卒業数十年後に、高校の新聞部同窓会で KT さんに再会した。彼女はその後、脚の手術をして松葉杖は不要となり、福祉関係の勉強をして、その方面の仕事をしていたようだ。

  2. 当時、携帯用ラジオはまだ珍しく、あまり大きな音も出なかったようである。Jack に聞かせて貰ったのは、彼の兄のものだった。

2005年7月5日火曜日

芸術と科学の関係 (Relationships between Arts and Science)

 【概要 (Abstract in Japanese)】最近、新聞紙上で芸術と科学の両者にかかわる記事を目にすることが多い。たとえば、同志社大の京田辺キャンパスに今春「文理融合」をうたう文化情報学部が開設されたという記事があった。これは歓迎される傾向ではあるが、同学部の目標は芸術と科学の間に可能な多くの相互作用の一つの局面を扱うに過ぎない。私がネイチャー誌の書評ページから知ったいくつかの他の局面をここに紹介する。それらは、「ボヴァリー夫人の卵巣」という著書に見られる、小説に基づく生物学の研究、「21世紀の脳」の著者が抱く、科学は芸術によって補われるべきだという考え、そして、理論物理学の最前線を紹介した「歪んだ道」の書評が示唆する、芸術と科学の表現が互いに学び合えるという可能性である。
 【Read the main text in English.

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/05/2005
 (1) 同志社大学の文化情報学部は、ここでのご紹介を読むと、確かに芸術と科学の関係についてのあくまで一側面を研究する趣旨のようですね。特に、科学は "data science" だけではないでしょうし、けれども情報文化に対応すべき時代の要請としてはこのような教育研究の趣旨に絞られるのでしょう。
 (2) Ted さんが挙げてくださった諸研究は、重要な観点が多く出されていると思いますが、"... is even prepared to believe that science is perhaps intrinsically incomplete and must be complemented by the kind of knowledge we gain from arts." という部分に象徴されるように、科学は芸術によって補完されねばならない、つまり芸術は科学に対して補完的であり、逆も成り立ちうる、という考え方は確かに妥当するのですが、両者の発生や成立、維持・促進されるプロセスや根拠については、両者を対置して考えるよりもっと複雑な、微妙な相互作用も多いと思うのですね。両者の同根性、ということは容易にはいえないのですが、もちろんそのことが基礎づけられるなら、生物学的な成立根拠や創造の動機としては同根、ということが第一にくるかとは思います。(その意味で、ボヴァリー夫人に関する書は面白いですね。)次には社会的な渇望にこたえて発生する、ということもくるでしょうね。
 (3) Davies の意見も面白いですが、芸術家と科学者が「事後的に」相互理解をおこなうという側面だけでなく、そもそもこの社会に両者がつねにすでに共存してきた事実に、より先験的な相互作用をみる、という側面ですすめる研究も有意義かと思います。
 長くなりましたが、科学と芸術の相互作用、相互理解に関して。科学の不完全な部分は、科学論によって指摘され、補完されるべきである部分が多く、科学はそれ全体として完全性、完結性が目指されるべきなのだろう、芸術も同じく、ということですね。他に奉仕するより、そのような意義のほうが優先されると思うのですね。けれども科学論はすでに一つの立派な文化論でもあり、そこに両者の相互作用をみることができる、などという意味で上の意見を述べました。

Ted 07/05/2005
 沢山のコメントをいただき、ありがとうございます。
(1) 確かに学部新設の要求が目下通りやすいのは、情報に関係した申請でしょう。
(2) 科学と芸術の発生には、社会的な渇望の前に、人間的な渇望もあると思います。
(3) 先験的な相互作用をみる、とはよいご提案です。私も「科学と芸術の相互作用」には、事後的なものだけでなく、個々の科学者・芸術家が育つ過程において、科学者の卵が芸術から学ぶことが後に役立つという作用や、またその逆の作用もあると思います。

小田菌 11/18/2005
 公益学という少し変わった学問を勉強しているものです。今年で4年生なので卒論に取り組んでいます。卒論のテーマは「公益的視点から見た科学」です。その研究のひとつに「科学と文芸の共生」という項目を設けようと思っていた矢先に、このブログに出会いました。沢山のお話ありがとうございます。参考にさせていただきます。

TEd 11/18/2005
 卒論のご参考になるとは望外の喜びです。よい論文が出来上がることを祈ります。
プラトテレス 06/18/2006
 自然科学を芸術表現活動によって深めることを目的とした『知の統合プロジェクト』の第一弾として東大安田講堂でフォーラムがあります。2006年8月30日「次世代文化フォーラム」。

雨中のアジサイ / 兄弟がいないということ


雨中のアジサイ

 写真は、一昨日のブログに記した千早赤坂村のレストラン「山燈花」の庭園。多彩なアジサイの花が雨の中でひときわ艶やかだった。

兄弟がいないということ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月23日(火)晴れ

 M 新聞 K 支局長だった(次の仮定が真ならばこの過去形は正しいだろうが、そうでなければ、現在形にしなければならない。けれども「である」と書けば次の言葉が書けない。昨日書いた h と v のような関係だ)Y・T 氏のお嬢さんが Green ではないのかね [1]。もしもそうならば、彼女は神戸から移って来たそうで、そこでは UW 君と同じ小学校にいたということだ。「弥次さんと京人形」に似た話だ。(完全に類似しているためには、小学校の頃の君が UW 君でなければならないが。)この話を聞かせてくれたのは、「弥次さんと京人形」の作者の Jack だ。
 Green の父君が Y・T 氏ならば、昨年の高文連新聞研究会で、「『菫台時報』の短評記事『曲言直言』は、長すぎて『直言』になっていない。1行1行の間に寸鉄人をえぐるような言葉でもって魅力を増すべきだ」といわれた人だ。それから、もしもそうならば、その姓から、Green が中学生時代にぼくに対して最近の君に与えたよりも少ない好感(と書いては失礼なようだが、――「いや、かえってその方がよい」と君はいうかも知れない――実際そうだった)を与えた女生徒だったことを思す。
 つまらないことを、それも仮定のもとに、たくさん書いてしまった。ただ、もしも仮定が正しければ、『思出の記』の中で蘆花が何度も使っていた「事実は小説よりも奇」という言葉が、なるほどそうだと思われる、ということを書きたかったのだ。

(Sam)

 Wood splitting をやる。かなりよいノコギリを借りてきたのだが、直径八寸ぐらいの柱材を両断するには、十五分も要した。根気の要る仕事だ。そして、経験による熟練も必要だ。

 白菊町の駅で岩本から出て来る YM 君を待って、二人で早道町XX へ行く。途中の駄菓子屋できょうの訪問にふさわしいと思われるものを求めて行った。小さな子が二人もいるのだということは知らなかったのだが。
 「兄弟がいない」ということについて、どう考えるかね。
* 小さい間はわがままができてよいかも知れないが、大きくなったとき、真の相談相手としてひじょうに大事なものであるという先生の意見だった、そして、先生はこのために人一倍苦労したと、つけ加えられた。先生の質問に答える発言と、話の途中での二三の質問をした以外は、出された柿山を口に入れながら、次つぎと続く先生のさまざまな話に聞き入った。先生の言葉を借りていえば、人格の形成と人生観の確立のための真の学問をしたことになるだろう。
 先生の家を出てから、「足が痛い、足が痛い」と YM 君がこぼした。われわれはあぐらの姿勢で三時間ばかりいたわけだ。


 (Tedの欄外注記)* 血のつながった「真の相談相手」がいるに越したことはないが、いなければ仕方がない。けれども、その代わりとなる人物を見出して、互いに信頼し理解し協力し合うならば、「いない」からといって、人一倍苦労しなければならないことはあるまい。こういえば、「そういう人物を見出すためにも苦労しなければならないのだ」といわれるかも知れない。なるほど、それは、たやすい仕事とはいえないだろうが、決して「人一倍の苦労」ではない。そのためには、ただ、自分自身を信頼出来る人間にする努力を惜しまなければよいのだ。

 引用時の注

  1. Sam は先の日記「海水浴」において、Green に好感を抱いたことを記していたが、その少し後の紛失した日記帳に、彼女が転校してしまうことを書いていたようだ。そうならば、ここに書いてある仮定が正しい場合、それは Y・T 氏の転勤に伴うものだったことになり、彼が M 新聞 K 支局長だったのは、この時点ですでに過去のことになる。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/05/2005
 兄弟関係というのは、その親和力からくる依存性と、他者としての排他性との、対立的な二面性のなかで良くも悪くもいつまでも縺れあってゆくものですね。慎太郎と裕次郎、若乃花と貴乃花のように、二人兄弟ならばつねに反面教師的な存在となりましょうから、いかに対照的に生きるかを思春期に学びとるのが賢明なのでしょうが、いまのところこの二組の場合、成功と失敗の典型例となってしまっているようですネ。

Ted 07/05/2005
 私の長兄は生まれて間もなく死亡。小学校3年生で死亡した次兄が、その頃すでに志望していたと母がいっていた将来の進路を、図らずも私がとることになりました。次兄が生きておれば、そうならなかったかも知れません。

2005年7月4日月曜日

等乃伎神社 / ダラ! 明日休みや!


等乃伎神社

  写真は、昨日のブログにも書いた、わが家から西へ向かうウォーキングをする場合の目的地である高石市の等乃伎神社(6月28日に写す)。この辺りの町名は富木と書いて、神社の名と同じく「とのき」と読む。

ダラ! 明日休みや!

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月22日(月)晴れ時どき雨

 あゝ、駄目だ。「話の泉」の中の、何という漢字が最も多く使われているか、という出題への答が問題とした定期刊行物 [1]、ぼくはそれを… [2] ――こんなのは、まずい弁解だ。SN 君の家からの帰りに野田で乗ったバスの運転手がわれわれに話したことを思い出す。彼は社会の矛盾をわれわれに話そうとした。そして、彼自身がその真っただ中にいるのだった。彼は愉快そうに話したが、「ぼくなんかも意志が弱かったから、こんなことになっているのだ」とつけ加えた。――社会の矛盾と個人の矛盾の関わり…。個人の矛盾は外力による意志の歪みに発する。外力は、つねに隙を見てわれわれの意志をだらしなく延ばさせ、意気地なく縮ませ、正邪の判断なく捩じらせ、堅実さなく曲げさせ、あるいは確固たるところなくひしゃげさせようとしている。――こうした考察は十二分だ。ただ必要なのは…。

 vh によって与えられている。hh0 から h1 になると、vv0 から v1 になるが、v が変化すると、h の変化の様子も変わって来る。不思議な関数だ。*

 校歌がついに歌われる! 昼食時間に音楽室へ呼ばれて、あたかも自分が真っ先に見ようと思ったものが、すでに誰かの見た後だったときに味わうような感じを経験した。合唱クラブ員の力強い合唱だ。黒板に書かれた歌詞だけを見て歌っている。TK 先生も SG 先生も IT 先生も、その他多くの先生方も聴いておられた。「トップ記事、トップ記事。しかし、誰がどのように書くか」と思いながら、ぼう然と聞いていた。聞くというより、ただ、旋律と音律と調和のある声の中にたたずんでいた。どんな歌詞だったか覚えていない。

(欄外注記)* 物理のプリントにあった問題に関することだが、この問題は積分を使わなければ解けないのだそうだ。

(Sam)

 「明日は簿記練習帳を持って来て下さい。」「明日までに生徒会費を納入して下さい。」「明日この続きをやろう。」「明日英語あるかいや?」こういう言葉が繰り返され、そのたびに笑った。「ダラ!
[3] 明日休みや!」といって。
 3年生の何かのため、H が六限になった。今学期の H は遊んでばかりいる。ホーム委員長は野球部員なので、運動が大好き。何かと理由をつけてバレーボールやバスケットボールを使用して遊ぶことになる。ロングホームの使用について、もっと真剣に考えられてもよいのではないかと思うが、一般ピープルが現状に大満足なのだから、しょうがない。


 引用時の注

  1. 新聞。

  2. ここで10行余りを消してある。消した上に後日(10月4日と記して)学校新聞の校正刷りの訪問記事「門をたたく」の一部を斜めに切って貼ってある。もと日展審査員・都賀田勇馬氏を捕まえ損ね、仕方なく高校の近くの少年鑑別所の所長を訪問したのだったが、意外に興味深い話を聞くことが出来たようだ。「ここでは、どんな仕事をなさっていますか」の問いに対して、「ここを少年刑務所のように思っている人が多いようだが、犯罪者を入れておく刑務所とは全く違うのだ。少年法によって家庭裁判所から送られた少年を審判するまでの間、その期間中一時収容して監護する。そして、医学、心理学、教育学、社会学、その他の専門的な知識で、それらの…」という答の文字が見える。

  3. 「ダラ」は金沢弁でバカのこと。翌日は秋分の日で休み。

2005年7月3日日曜日

千早赤阪村への1日旅 (One-Day Trip to Chihaya-akasaka Village)


 イメージは、千早赤阪村のレストラン「山燈花」からのスケッチ。左上の屋敷は同レストランの経営者の住居。右に屋根つき白壁の、その屋敷の門の側面も見える。

The image shows a sketch from the restaurant Santoka in Chihaya-akasaka Village. The building at the upper left is the residence of the owner of the restaurant. On the right, the side of the roofed, white gate of the residence is seen.

 【概要 (Abstract in Japanese)】昨土曜日、妻とともに一日グループ旅行に参加した。JR天王寺駅の前でバスに乗車。1行35名。始めに河内長野の延命寺を訪れたが、そこのハス池のハスはまだツボミだった。次いで目的地の千早赤阪村山中のレストラン「山燈花」へ。レストランの経営者は先祖代々そこに暮らし、林業を生活の糧にしてきたという。いま、その所有地の一部はシャクナゲやアジサイの名所の一つとなっている。しゃれた料理の昼食をとった後、山すその遊歩道をアジサイその他の花々を見ながら歩いた。昼食を終えるまでは雨がかなり強く降ったが、午後は小降りとなり、林の中の涼しい空気を吸いながら、かなり快い散策ができた。スケッチは食後に、抹茶とともに出された菓子ののっていた懐紙に鉛筆で描き、帰宅後ペンと色鉛筆で仕上げたもの。【Read the main text in English.

ノウゼンカズラ / 心の離反ではなく…


ノウゼンカズラ

 わが家から西へ少し歩くと堺市を出外れて高石市となり、等乃伎神社というのがある。昨年までは1万歩のウォーキングをしていたので、そこは目的地としては近過ぎた。しかし、最近は6千歩を超えればよし、と気軽にやっているので、この神社も目的地に入れられることになった。写真は等乃伎神社付近の民家で咲き誇っていたノウゼンカズラ(6月28日に写す)。漢字では凌霄花と書く。わが家の近くにもノウゼンカズラの大きな木のある家が2軒あるが、親しくはしていない近所の家の花の写真は撮り難い。

心の離反ではなく…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月21日()晴れ

 買っておけば何かの役に立つだろうと思って、岩波新書の『万葉秀歌』を求めて来る。歩きながら、道路や建物や空や用水の流れの色彩の麗しさに、恋を経験しつつある人が恋する女を見るときに抱くのはこんな感情かと思われる感情をもって、目を向けた。そして、それらに対してこんな感情をもつことに、はなはだしい疑問を感じた。新しい下駄を履いて行ったので、帰りは、仙女に声を渡して人間の足を得、王子に会ったが愛されず、鳩か何かになって昇天したアンデルセン童話の人魚の感じたような痛みを感じている足を引きずって来なければならなかった。Jack のところへ寄ったが、母堂を助けて店を出しに行ったようだった。

 心の離反という深刻な現象の上からではなくて、同一の問題を考え合うことが出来るという、接触に必要な方便の欠如から、彼を失った、いや、そのように見えるに過ぎない。――中学生のときは週末毎にあれほど足を運んだ Octoの ところへ、全然行く気がしなくなったことについてこう考えている。[1]

 ルソオの『懺悔録』を読んでいる。第三巻の始め辺りに、彼がわれわれの年代だった頃の心理が詳細に告白されているが、ところどころ難解だ。

(Sam)

 大掃除という仕事は午前のうちに済んでしまった。階下の坊やを連れて動物園へ行くことにした。児童生徒の学習参考とか実物材料とか、そんな目ではとうてい見られない。どの動物も幻滅を感じさせるに十分だった。狭い檻の中で、彼らはとても暮らしにくそうだった。雑食性だからといって、セルローズばかりのナマイモしか与えられないとは、ひどいものだ。カバやワニなどの水槽の水は汚くて臭いし、鎖につながれたサル公たちは、くさりに擦れて毛が抜けてしまっているし、動物たちの糞尿は始末されることなく檻の中に四散しているし、見られたものでない。
 明治キャラメルのアトラクションもスローモーで、興味は薄かった。それに、五分と間をおかないで、「場内はスリが横行いたしておりますから、懐中物にご用心下さい」というアナウンスがある。ただ、このアトラクションで付属小六年の種村なんとか子さんという女の子の木琴独奏は少し見ごたえがあった。日光東照宮模型などというものからも、十円の価値は受け取れなかった。が、子どもたちにとっては、十分楽しみと新しい知識の得られるものであっただろう。だが、知識の提供方法には問題がある。各動物の説明も大人向きで不親切だったし、案内係もいなかったようだ。


 引用時の注

  1. Octo は高校卒業後、一流金融機関の金沢支店に就職した。大学へ進学した私は、休暇ごとに、また Octo と親しく交わった。のちに彼は東京へ転勤して、習志野市に居を構え、私は学会出張の折などに彼と会うことを楽しんだ。一昨年春、彼はオーストラリアに住む次男の近くへ移住したが、間もなく、急死を知らせる夫人からのメールを受け取った。彼はよい夫人と2人の息子たちに恵まれ、性格通りの穏やかな、そして幸せな人生を送ったと思う。

2005年7月2日土曜日

全開でないのがよい / 最小・最大目標


全開でないのがよい

 写真は堺市・中の池公園で(2005年6月28日)。ハスの花は全開でなく、この程度に開いているのがよい。

最小・最大目標

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月20日(土)晴れ

 切迫、切迫。明日と23日の休みが邪魔になるほどの切迫。何もしないで1週間を送ることは、この仕事にとって莫大な損失だ。
 昨年の通り毎週クラブ活動だったならば、この切迫に際していくらかの助けとなっただろうと惜しまれる4限にあったアセンブリーは、金城高校校長加藤氏の講演だった。音楽に関する話で、音楽とは何ぞや、芸術なり、芸術とは何ぞや、文化の一つなり、文化とは何ぞや、とさかのぼり、人間の真善美および信仰の追求という活動を具体的に説き、それから音楽に戻り、それが身近にあるものだということや、メロディ、リズム、ハーモニーがどういうものかということを身振りとともに面白く話された。最後につけ加えられた音楽だけでなく会話においても必要な発声上の注意は、実にぼくなどの実行しなければならないことだった。きょうに限って、講堂の後ろの方で聞いたのだったが、氏の話はたいへん聞きよく、しかも退屈を感じさせないものだった。

 午後は大桑の仮橋を渡る。板の渡されていない丸太のところを TKS 君は馬乗りになって、少しずつ腰を前方へ運びながら進まなければならなかった。一歩一歩に足下の茂った草の中からバッタが飛び出すのに驚きながら、畦道を行く。Jack が取って投げてくれるイチジクの実をたくさん食べ、舌の先を痛くする。招待者の SN 君は身体の具合が悪くてちょっと元気がなく、そのことがわれわれに、与えるともなく一抹の淋しさを与えた。

(Sam)

 FJ 君と連絡がとれなかったが、帰宅後、一人だけで出かけた。もしかすると彼は先に行っているのでは、と思っていたのだが、二水からはぼくだけが出席したことになった。
 競技は、50字、75字、100字、150字、200字と行われた。参加者は、桜ケ丘からの二人とぼくの他は菫台の生徒ばかりで、全部で十五名くらいだった。50字のときは、ぼくともう一人を残した他はみんな0だったが、ぼくは「ホリョ」を「コレヲ」と聞き違えて-3。100字のときは、速記原稿では2200億円と書いておきながら、訳すとき二万二千億円として-2となり、0は一度も取れなかった。失点は-3、-2、-2、-22、-97という状態で、非常に欠陥があることを示している。菫台の M・T 君は最後まで0で通した。ぼくは、この競技の中では五位の成績だった(実際にはこういう順位は決めなかったのだが、成績表から判断して)。きょうの結果から、毎秒二字までは書けるという自信を得たが、現在の二倍の速さにすることを最小目標、三倍の速さにすることを最大目標にして努力しなければならない。